30年ぶりに関東に住んでいるが、やはり西日本の文化とは相当な違いがある。
しかも、おっさんは、いつも一言多いので仕事相手の若い女子サッカー選手はドン引きである。
話を合わそうと『鬼滅の刃』を見るが登場人物の漢字が難しいので名前を覚えられない。
仕方がない。学生時代にはやる事が多すぎて、勉強をする暇がなかったのだ。
香川県の中学を卒業して高校サッカーの名門・帝京高校に進学した。
Jリーグなどなく、実業団の日本サッカーリーグ(JSL)が日本サッカーの最高峰の時代だ。
テレビ放映などは正月の天皇杯ぐらいのもので、日本代表の試合も観た記憶がない。
地方の人間にとってNHK以外の民放でサッカーを観れるのは年に一度の「トヨタカップ」だけだ。
だが唯一、「全国高校サッカー選手権大会」だけは異常な程の盛り上がりを見せていた、そんな時代である。
中学生の時は、そんなにサッカー一筋に頑張ってたわけではない。
折しも、全国で問題になっていた『校内暴力』時代の真っ只中である。
かくいうナウい自分は周りに流され、流行の波の最先端に乗っていたのだ。
そんな自分だったのだが何故かお誘いを受け、帝京高校に入学する事になりオキシドールで脱色していた髪の毛を心機一転、坊主頭にして上京した。
新入部員は100人はいたと思うが、半分はサッカー特待生か推薦の生徒だ。
腕に(脚に?)自身のあるヤツらばかりなので鼻っ柱も強かったせいか、いつも同級生同士が揉めていた。
現在は分からないが、その頃の帝京生はとても元気な高校生ばかりだった。
以前にも書いたが、上下関係は厳しかった。
一年生は『五箇条』なるものを覚え、早朝から夜遅くまでやること満載なのだ。
面白いのは上級生と下級生で舎弟関係を結ぶのだ。
任侠の世界とは逆で「アニキ、舎弟にして下さい」というのでは無く、新二年生が新入生である一年生を「お前は俺の舎弟になれ」と一方的に言われるのだ。
つまりは「お世話する後輩」を決めるわけである。今となって考えれば恐ろしい習わしである。
当然、何年も前から系統は続いているわけで、これまた不思議なもので自分の系統は先輩から後輩に至るまで皆さん少しやんちゃな有名サッカー選手ばかりなのだ。
当時の帝京のグランドはサッカー場が一面取れない広さだった。
そのグランドを高いフェンスで仕切って、こちらも甲子園常連の野球部と使うのだ。
強打を誇る、名門野球部である。当然のようにネットをすり抜けたり、越えたりする硬球がサッカー部が練習している場所に飛んで来る。
その硬球がサッカー部に当たらないように、数人の野球部が点在しているカオスの様な練習風景なのだ。
春の甲子園で準優勝したチームの打球は凄まじく、さながら弾丸が飛んで来る戦場の中でサッカーをしているようで、常に緊張感を持っていなければならない。
それでも運悪く、硬球に当たるサッカー部員が1日一人は必ずいる。
野球の硬球なのだから相当痛い。当たりどころが悪ければ危険だが、そこは同じ敷地内にある帝京大学病院があるので安心だ。
サッカー部の場所に点在している野球部員にもサッカーボールはよく当たる。
だが、例え顔面に当たったりしても微動だにせず、サッカー部を守るという使命感は気合が入っていた。
総勢100人を優に越える一大組織はピラミッド型にレギュラー・レギュラークラス・○○・マブ○○と呼ばれる4つのグループに分かれて練習をする。
ハーフコートより狭いグランドで練習できるのはレギュラーとレギュラークラスだけだ。
あとの2グループは声出しと球拾いで、レギュラーとレギュラークラスの練習が終わった後にボールが蹴れるか、石神井川の周りを走るか、埼玉の戸田橋まで走るかだ。
グランドで4つのグループ全員で行われる練習は『走りの練習』だけなのだ。
鳴り物入りで入学して来た一年生はレギュラークラスに入り、上級生達と練習をしていたが、平凡な坊主頭の自分は最下層のグループでひたすら走っていた。
水曜日は午後からレギュラーとレギュラークラスは対外試合に出掛けるので自分たち2つの下層グループはゲーム形式の練習ができたのは嬉しかった。
レギュラークラスだった同級生が同じ下層グループになり、同じ下層グループだった同級生がレギュラークラスに上がったりしていたが、自分は相変わらずの最下層グループだった。
100人はいた新入生だが、夏の合宿前には50人ほどになった。
この頃は練習のキツさ、雑用のシンドさ、言葉の壁で本当に辞めたかった。
だが辞めれないのが「下宿人」と呼ばれる地方出身者だ。
地元の周りの友達にイキって「正月はテレビ見とけよ」と言った手前、すごすごと帰れない。
親元を離れた「下宿人」なので月に一度、集合をかけられご飯を食べていた。
三年生の「下宿人」の親分はチームの主将 現熊本県宇城市教育長の 平岡 和徳氏 だ。
基本、一年生と三年生は話すことが出来ないのだが、最下層の自分に唯一、声を掛けてくれる三年生が平岡さんだった。
毎回、食事をしながら平岡さんに励まされる下級生なのだが、宴の最後は何故か平岡さんの歌で締める。
カラオケなどない時代、アカペラで『乾杯』を気持ち良さそうに歌い上げ、御開きになるのが恒例だった。
夏休みに入る前に長野県の菅平高原で1週間の合宿が行われる。
二年生の先輩に恐ろしさを聞いていたが想像を絶する1週間だった。
合宿は24時間体制なのだ。練習前後の時間も気が抜けない。
何時だろうが集合が掛かれば5分以内に大広間に集まらなければならない。
練習後も風呂も入れず、水道で体を拭くだけで練習着を着て寝なければならないのだ。
誰かが何かをやらかすと集合がかかる。やんちゃな輩ばかりなので必ずやらかすのだ。
そんな時は噂が飛びまわり「誰それのアレが見つかった」「○○さんがブチギレてる」など恐怖の伝言ゲームが嫌でも耳に入って来る。
そんな時は1秒でも早く寝なければならない。
案の定、朝の4時に集合がかかる。急いで起きて大広間で正座である。
1時間ほどの説教の後はグランドに出て罰走である。何の罰なのか分からないがとにかく走るのだ。
おかげで今も「のび太」に負けないほど2秒で眠れ、尚且つショートスリーパーである。
かなりハードな合宿を終えれば夏休みの遠征が待っている。
最下層の自分は遠征メンバーに入るはずもなくグランドで練習だ。
上層グループが遠征でいないので思う存分に1日の休みもなくグランドで鍛えられた。
そして、夏休みが終わった頃には同級生が25人ほどになっていた。
二学期に入り、都立高校に練習試合に出向いた。
最下層にいた自分にとっては帝京サッカー部として多分、初めての試合だったと思う。
上のグループの同じポジションの二年生に怪我人が出たため、急遽、出番が回って来た。
恐らくまだ、名前と顔が一致しないのだろ「お前、出ろ」みたいな感じで呼ばれたのだ。
緊張しながらも意気込む事なく、普通に後半30分をプレーをこなしたと思う。
点を取ったこともあり満足感に浸っていると「お前、明日から上でやれ」と言われたのだ。
そうは言われても半信半疑で翌日の練習に出たのだが、「おい、北野はこっちだ」と今度は名前を呼ばれレギュラークラスに加わることになった。
たまたま同じポジションの先輩が怪我をして、たまたま先生のそばにいて、たまたま運よく得点できただけで二階級の昇格である。
その日からテレビで見た、憧れの上級生からパスを貰えたり、パスを要求されているのだから練習のテンションは計り知れない。
その後は上級生の要求に応えるべく、必死に食らいつくだけだったが、全国高校選手権のバックアップとして最上層のレギュラーチームに帯同するようになった。
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チャンスはいつ、転がって来るのか分からない。本当はもっと前に転がっていたのかも知れない。
ただ、転がって来たチャンスは必ず掴まなければいけない。
あのチャンスに気付かず、掴めていなければ今の自分は無いはずだ。
人生の節目になる出来事は必ずあるわけで、あの時のシュートの感覚は何故だか今でも覚えているのだ。
だが、高校選手権の宿舎で自分を待っていたのは、未だ経験した事のない新しい地獄だった。
最後までお読み頂き、ありがとうございます。