春秋制の日本サッカーも終盤を迎え盛り上がりを見せている。
個人的にはJ3リーグの混戦が非常に興味をそそられるのだが、我々サッカー界で生きている者にとってはデリケートな時期なのだ。
複数年契約ではない限り、個人事業主である我々は来期の契約を考えなければならない。
そんなピリピリしている時期に裏情報を知っている自分としては、指が滑ってブログに書いてしまうのではないかとブログ更新に躊躇してしまっている。
だが『神の子ディエゴ・アルマンド・マラドーナ』の訃報を知り急遽、マックを開いた。
四国の田舎の小学生にとってサッカーの情報は「サッカーマガジン」だけでテレビでサッカーなど見たことがなかった。
海外選手で知っているのは「全国少年サッカー大会」の参加賞で貰える下敷きの写真、西ドイツ代表のハンジ・ミューラーくらいのものだ。
そんなサッカー少年は「西日本選抜」とやらに選ばれ神戸に集められた。
神戸では練習と試合、そしてワールドユースというお兄さん達の試合観戦だった。
わけわからず紙製のポルトガル国旗を渡され、試合を見たのだが記憶に残ってはいない。
家に帰り、復習とばかりに本屋に行ってサッカーマガジンを読んで21歳以下の世界大会だと知った。
パラパラとページを捲り、日本ユース代表の記事を見て後の上司となる 松本 育夫監督の鬼の形相に驚いた。
その記事よりもデカデカと載っていたのがアルゼンチン・ユース代表の10番だった。
ワールドユースの決勝戦 アルゼンチン対ソ連 はNHKで放送され、なぜか誰もいない家で一人で観た。
デカいソ連の選手をアルゼンチンの小さい10番がヒョイヒョイとドリブルで交わしていくのだ。
しかも、ボールをタッチしながら飛びながらのドリブルなど見たことがない。
それまで90分もサッカーを観たことがなく、一人で観た記憶というのは、たぶんサッカーに興味のなかった家族は飽きて部屋を出て行ったからだろう。
それぐらいテレビで流れるサッカーの試合に入り込んでいたのだと思う。
これが初めて自分がディエゴ・マラドーナを知った時だ。
相変わらず、南米や欧州のサッカーなどに関わることの無い少年が次に動いているマラドーナを見たのは中学生の時のスペイン・ワールドカップだった。
マラドーナだけではなく、世界のトップレベルの試合を観るのも初めてだった。
黄金のカルテットを擁するブラジル代表をパオロ・ロッシが一人で粉砕した試合などサッカーって凄い、世界は凄いと思ったものだ。
大会形式も一次リーグから二次リーグ、準決勝、決勝戦というもので、トーナメント戦しか知らない自分にとっては新鮮だった。
二次リーグのマラドーナはイタリア戦、ブラジル戦と執拗なマークを受け、シャツは破れズタズタにされてブラジル戦の「蹴り退場」で大会を後にした。
サッカーの楽しさもさる事ながら、戦う気持ちを全面に出すスポーツで、ワールドカップとは国の威信をかけた戦いなのだと初めて知った。
少年は高校を卒業しサッカーで報酬を得るまでに成長した青年となった。
その頃にはVHSビデオが普及し、自分のビデオデッキを購入して日立台の寮で、あの時のワールドカップをテープが伸びるまで見ていた。
おりしも、マラドーナが神となったワールドカップ・メキシコ大会の頃だ。
ちょうどメキシコ大会はシステムの変遷をしており、スリーバックが台頭していた。
特徴的なのは上下動するウイングバックの登場だった。
守備力は高くないが運動量が多かった青年は、そのウイングバックにコンバートされた。
その後、大活躍とまではいかないが堅実なプレーでチームに貢献していた事でブラジル・サンパウロFCへの練習参加を打診され、二つ返事で日本の裏側へ飛び立った。
サッカー王国・ブラジルでの生活は刺激ばかりだった。練習はトップチームとセカンドチームを行ったり来たりしていた。
サンパウロFCはセレソン揃いでワールドカップ・イタリア大会への招集で人数が少なかったのが幸いした。
日本のテレビでワールドカップを見ると大抵は夜中だが、ブラジルでは昼間に観れる。
トップチームのクラブハウスで観たり、モルンビースタジアムの中にある若手の寮で観ていた。
ブラジルに居るのだから当然だが、ブラジル全土が一日中、セレソンの話題だ。
テレビのニュースやCMも街、お店、銀行の全てがセレソン一色なのだ。
まだ日本がワールドカップに出場すらした事のない時代であるから、このカルチャーショックは強烈だ。
凄いとは聞いていたが、これほどまでサッカーが国民に浸透しているとは思っていなかった。
そしてベスト16のカードは ブラジル 対 アルゼンチン。
仲の良かったチームメイトにパウリスタ通りのパブリックビューに誘われた。
大通りは歩行者天国となり、カナリア色に身を包んだ大勢のブラジル人が埋め尽くしていた。
アルコールを飲み、大声で歌いながら暴れている老若男女の群衆の中で青年が思ったのは「無事に帰りたい」だけだった。
試合はマラドーナの必殺スルーパスからの得点でアルゼンチンが勝利した。
今まで騒いでいた群衆は一瞬にして静まり返ってしまった。そしてすすり泣く声が聞こえる。
大の大人が人目を憚らずに大泣きしているのだ。
マジかっと思いながら隣のチームメイトを見るとコイツも大泣きしているのだ。
日本人の青年は泣くべきか、泣かざるべきかを考えつつ缶ビールを口にしていたのだった。
サッカーは人々の心を揺さぶるものだ。そして喜怒哀楽を出す事こそ人間なのだと肩を落とし、泣きながら歩くチームメイトを遠い目で見て思った。
ディエゴ・マラドーナは自分にとって永遠のアイドルだったと同時に、節目節目に影響を与えてくれた。
サッカーについて学んだ時には必ずマラドーナがいた。
子供の頃から真似ばかりしていたように思う。
サイズの小さいパンツを履いたり、プーマのスパイクを履いて靴紐を足首に巻いていた。
小刻みにボールをタッチしてドリブルをしたり、右利きなのに左足ばかりでプレーしていたおかげで左足の方が上手くなってしまった。
コーヒーが飲めるようになったのは缶コーヒーの「NOVA」を飲むようになったからだ。
チェ・ゲバラを好きになったのもクィーンを知ったのもマラドーナの影響だ。
ディエゴ・マラドーナには心からご冥福をお祈りし、感謝します。
ちなみにではあるが自分はマラドーナ本人には会った事はない。
一度、ブエノスアイレスでビラルド監督率いるアルゼンチン代表のバーベキューに行ったのだがマラドーナが帰った後だと聞いた時はショックだった。
しかし、昨年の年末に六本木で、とある組織の忘年会に出席したときに『ディエゴ 加藤 マラドーナ』という人物に会ったが、そこまで嬉しくはなかった。
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