『誰のために戦うのか』は人それぞれだ。
碇シンジは使徒ではなく思春期の自分と戦っている事は詳しく説明できるのだが、炭治郎が誰と戦っているのか知らないので最近は選手から『キメハラ』を受けている。
その「キメハラ」という言葉さえ江戸時代の「陰腹」と思い、なんて覚悟のある言葉なのだと思っていた。
少しブームが落ち着いたら見ようと思っているが、コロナ禍が終息してマイクを持つ時は「紅蓮花」ではなく、「残酷な天使のテーゼ」を歌うことを誓っている。
自分には『讃岐鬼誠会』という後援会があった。
高松市鬼無(きなし)町という盆栽の産地が自分の生まれ故郷なので「鬼無の誠」という事でその名前がつけられた。
今なら鬼滅の刃のようなネーミングなので受けが良かったのだろうが、当時は恐ろしい人が集まっている軍団だと思われていたらしい。
カマタマーレ讃岐の監督になるという事は、中学を卒業して地元を離れた自分にとってUターン就職である。
そこには当然、ガキの頃から遊んでいた同級生が大勢いる。
四半世紀の時を経て再会した社会人の同級生たちは、後援会を発足して応援してくれるという事になった。
財政の苦しかった四国リーグのチームにスポンサーとして支援もしてくれた。
飲食店の仲間は選手に食事を提供し、自動車関係の仲間は格安で選手の車を修理したり、チームの荷物車を無償で提供してくれたり個人的にも支援してくれていたのだ。
支援してくれたのは金銭面だけでは無かった。
その頃のカマタマーレ讃岐は香川県内でも知名度は低く、商店街などでイベントを打っても人は集まらない。
そんな時は鬼誠会が大挙として集まってイベントを盛り上げてくれた。
当然、試合にも応援に来てくれるのだが、そこには以前から応援している20人ほどのサポーターがいる。
そのサポーターと軋轢が入らないように事務局長はジュースやアイスクリームを差し入れしていたそうだ。
JFLになると四国から出る試合になるため、バスをチャーターして応援に駆けつけてくれた。
バスに乗って応援に行く道中は宴会になり、スタジアムに到着してからも楽しく応援していたようだ。
「お前が帰って来てくれたから、何十年も会ってなかった仲間と再会できた」などと言われた時は本当に嬉しかったのを覚えている。