このブログにはGoogleアナリティクスなるサイト分析ツールを導入している。
日本の何処からブログを読んでもらっているのかが分かるのだ。
Googleアナリティクスによると、このブログは90パーセント以上が関東地方より西で読まれている。
すなわち東北地方から北海道では、殆ど読まれていないのである。
宮城県の数パーセントは先日、律儀にも「萩の月」を差し入れてくれた 佐々木 匠 だと思うのだが。
「全国制覇」を目論むべく 佐々木 匠 にはより一層の活躍が出来る様、プレッシャーを掛けなければならない。
J2・3リーグに所属している半数以上のクラブは地域のリーグ戦を勝ち上がって、ユニフォームの右袖にJリーグマークを付けている。
「日本で最も過酷な大会」と称される全国地域サッカーチャンピオンズリーグ(知らない間にかっこいい名前に変わっていた)を勝ち抜いてきたのだ。
この大会は、日本フットボールリーグ(JFL)への昇格をかけた超短期決戦で行われる。
現在はレギュレーションが変わり、試合間に多少の休養を挟むが数年前まで違った。
予選リーグを金、土、日曜日で3連戦を行い、翌週の金、土、日曜日に決勝リーグを戦う「知力、体力、時の運」的なレギュレーションなのだ。
自分は2回この大会を経験したが、正直かなりのメンタルを消費するので非常に身体に悪い。
1年間積み上げてきたものが3+3日の結果によって天国と地獄に分かれてしまうのだ。
Jリーグの監督になって、中2日とかは経験したが、3日連続3連戦は準備も何も無い。
選手層もあるだろうが、運の要素が強い大会だと思い出す。
ロアッソ熊本(当時はロッソ熊本)の時は 池谷監督 も自分も初めてだったので、シーズン中を試行錯誤しながら九州リーグを勝ち上がり大会に臨んだ。
決勝リーグの最終戦、ジェフユナイテッド市原・千葉アマに引き分ければ昇格が確定するにも関わらず、終了間際に失点してしまい3位になってしまった。
だが次の週、JFL 愛媛FCがJリーグに昇格したことで上位3チームが JFL に昇格する事が出来た。
選手のレベルは高いチームだったが、それだけでは勝てない勝負の怖さを知った大会だった。
ロッソ熊本はロアッソ熊本に名前を変えJリーグに参入し、まさかの自分がJリーグ監督になるのだった。
たった一年で契約満了になり、四国リーグのカマタマーレ讃岐に移る事になるのだが、待っているのはアノ過酷な大会だった。
それまでのカマタマーレ讃岐は 羽中田監督 のもと、地域リーグには珍しいポゼッションサッカーだった。
だが、前の年にロアッソ熊本で「日本一ボールを動かしていた笑」自分にとってみれば、余りにもレベルが違い過ぎるサッカーだと感じた。
選手のレベルは当然だが、実際に試合をする当時のピッチは、お世辞にも良くない。
そんなピッチでパスミスでもしようものなら、勝てる試合も勝てなくなってしまう。
与えられたミッションは四国リーグを勝ち抜き、地域決勝大会で勝つ事なのだ。
自分は迷わず「堅守速攻」を選択したのだが風当たりは強かった。
無名の監督が、全国的に知名度の高い 羽中田 前監督 のサッカーと真逆の事をしているのだから、数は少ないがコアなサポーターからは不評を買っていた。
「堅守速攻」にしたのはピッチの問題だけでは無い。
このレベルでは傑出したストライカーが居ない限り、組織だった守備をすれば失点は抑えられる。
逆の言い方をすれば攻撃の対策を取られたら、組織的に守られれば得点できないということだ。
流行りのポゼッションサッカーをしたいであろう選手達には『目的は勝つ事』と言い聞かせた。
クラブ役員が「去年はJリーグのチームと練習試合をして良い試合をした」と、半ば自慢のように話をしていたので、失礼ながら「今年戦う相手はJリーグのチームとは違いますよ」と言った事もある。
練習試合にも勝つ事にこだわりを持たせ、同じ思考を持つアグレッシブ影山監督のJ2ファジアーノ岡山に出向き鍛えてもらった。
もちろん前日の試合に出ていない選手が相手だが、負ける事は一度も無かった。
クラブ全体を「戦闘モード」にする事で協力も得て、その年は公式戦、練習試合も含め天皇杯の大宮アルディージャ以外には全て勝利出来た。
地域リーグ決勝大会の最終戦の前にロッカールームで見せたモチベーションビデオがある。
エンディングをエヴァンゲリオン風に『完全制覇』の文字で終わるのだが、本当に完全制覇をしてしまったのである。
Jリーグの監督をたった一年で契約満了になった自分が地域リーグに行くのには葛藤があった。
実際、前の年のJ2リーグ最終節はヴァンフォーレ甲府とのアウェイ戦。
ヴァンフォーレ甲府は勝てばJ1昇格の可能性があったので、スタジアムは素晴らしい雰囲気だった。
それが、だだっ広い多目的広場で数十人の観客での試合はギャップがあり過ぎた。
ピッチサイドに立つ自分が情けなく思えた・・・。
しかし、今思えば当時の自分に「何を抜かしてんねん」と言いたくなるほど自分が恥ずかしくなる。
Jリーグの監督を一年そこらやった経験なんて「屁の突っ張り」にもならない。
当時の自惚れていた事を気付かせてくれたのは、アノ過酷な大会なのだ。
ある意味Jリーガーよりもサッカーに対して熱い選手達やスタッフ、そしてこの街を盛り上げたいという人達と戦えた事が今の自分を作ってくれたと思う。
エリートの人達では到底、味わえない成り上がりを経験したのだ。
そして地域リーグへ行く決断の背中を押してくれたのは、あの日に戦った当時のヴァンフォーレ甲府の 安間 貴義監督 だったのだ。
「何処のカテゴリーでも面白いし、何かが見えて来ますよ」と言う言葉は後になって身に染みて分かった。
もしこのブログを読んでくれてる若い指導者がいたなら、この言葉を思い出して何かを感じて欲しい。
切羽詰れば、鈍感な自分でも見えて来たのだから必ず見えて来るはずだ。
ネットを漁って戦術のトレンドを追い掛けた所で無駄なのだ。まずはサッカーの本質を見つける。
野心は大切だが、野心だけでは生きていけない世界なのである。
因みにではあるが、当時の地域決勝大会の前に坊主頭になったのは「気合い」を入れたわけでは無い。
地元のマスコミの方々には格好つけてそうに言ったが、なんて事はない。
練習試合の集合時間に遅刻して、頭を丸めて反省したと言う事実は当時の選手達しか知らない。
あの坊主事件から白髪が増え出した・・。