ホイッスルが鳴り、茶色の芝生の上に座り込んだ。
全身の力が抜けるとはこういう事なのか、スタンドの声は全く聞こえなかった。
誰かに立たされ、トボトボと歩きバックスタンドの応援席に挨拶をした瞬間に涙が溢れてきた。
何故、あんなにうずくまって泣いたのか。
昭和61年の駒沢競技場、もう38年前の出来事だ。
夏が終わり、いよいよ冬の全国高校サッカー選手権大会予選が各地で始まる。
今の高校生は「選手権」をあの頃のような想いを持っているのだろうか。
有望な中学生の多くはJの下部組織に進んでいるこのご時世だが、大学を経由してプロになる選手が多いのだから高校サッカーだってレベルは高いと思う。
そんな高校サッカーの最高峰の大会は今でも選手権なのだろうか。
残念ながら周りに当事者が居ないので分からない。
そして何より、母校が何年も出場していないのだから昔の仲間と会う事もなく、自分にとって選手権は遠い存在なのだ。
初めて見た選手権は小学生の頃だった。
香川県は公立の高松商業が一強だったが、その頃は出場枠が各県一校ではなかったので愛媛県代表と北四国代表を争っていた。
その年の決定戦が香川県で行われるのと、少年団の先輩が多く出るという事で観戦に行った。
先輩と言っても直接的な知り合いでもなければ接点があるわけでもなく、近所の高校生の兄ちゃんの試合を半ば強引に連れて行かれたわけだ。
小学生の試合もやっている屋島にあった四国電力か何かの広い敷地で行われた決定戦。
自分たち少年団の試合もやるのだから当然、土のグラウンドだが、その日は雰囲気が違った。
ゴール裏にはテレビ放送用のカメラを設置する為に高いヤグラが組まれ、ピッチの周りは多くの人が観戦していた。
放送席にはニュース番組に出ているテレビの人がいるのだ。
自分にとって、もうそこはテレビの中で、日常ではない世界だった。
試合だって普段は見る事のない大人の高校生がやっているのだから迫力満点だった。
高松商業が勝ち、全国大会へ駒を進めるのだが、そんな事は小学生の自分にはどうでも良い。
「応援席には大勢のチビッ子が応援していました」
なんとテレビで見る、地元のアナウンサーがカメラを引き連れてインタビューをしに来たのだった。
田舎の小学生がテレビに映るなんてあり得ない時代だ。
隣の友人はハイテンションでインタビューに答え、次は俺だと思っていたのだが綺麗にスルーされてしまった。
テレビのインタビューをされるのは、まだまだ数年先になる。
そして何故か、うちの少年団は全国大会も見に行く事になった。
場所は大宮サッカー場、今のNAC5スタジアムだった。
当時としては珍しいサッカー専用のスタジアムだ。
対戦相手は埼玉県代表の浦和南高校。
浦和南が名門中の名門などとは知る術のなかった自分の前で高松商業は大敗した。
試合が終わり、応援席に挨拶をしている高校生が泣いていた。
小学生にとって高校生は大人だ。
その、大の大人が試合に負けて、人目を憚らず大泣きしているのだから驚いた。
まだまだ、真剣にサッカーに向き合っていない自分は、その悔しさがどこから来るものか分からなかったのは当たり前だ。
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高校選手権の存在を知った小学生は中学生になり進学を考える歳になった。
Jリーグが無ければ、海外サッカーの情報する入ってこない時代である。
あの頃の田舎サッカー小僧の憧れは高校選手権しかなかった。
テレビの放送は地元チームの試合と準決勝、決勝だけ。
なので早々に敗退する高松商業の後は3試合しか見れないのだ。
そこで目にするのは関東と静岡の高校に絞られる。
関西や九州にだって強豪と言われる高校もあったと思うが知らなかった。
何故ならサッカーは非常にマイナーなスポーツだったからだ。
地域格差はあっただろうが、自分の住んでいた香川県はサッカーする奴は不良で、正統派は甲子園を目指すのが普通だった。
今ならネットでサクサク検索して、口コミを参考にしながら選んでいただろうが、当時は不可能。
そんな環境なのだからウチの親父だって分かるはずがない。
自分と親父の情報源といえばテレビの高校選手権一択なのだ。
そんな時代だったので越境してサッカーをするといえば東京の帝京高校だった。
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地方から東京に出てきた同級生は自分を合わせて10人もいた。
寮はなく、それぞれが学校近くのアパートに住んでいた。
十条銀座商店街を抜けた焼鳥屋の2階にある風呂無し、共同トイレの六畳一間が自分の部屋だった。
薄暗い部屋には暖房器具は無いく、夏は窓全開でパンツ一丁で冬はジャージを重ね着して毛布に包まっていた。
自炊するコンロも無いのだからお湯も沸かせられないどころか、顔を洗うのだって廊下に出なければならない。
朝飯はコンビニの賞味期限の過ぎたオニギリを貰って、昼飯は学食でカレー、夜は十条駅前の定食屋で大盛り割引定食。
風呂は学校隣の大学病院の霊安室横にある職員用。
たまに入る銭湯が幸せだった。
今考えると恐ろしい生活をしていたものだが、それが当たり前だと思っていたから苦ではなかった。
卒業後に聞いた話だが、様子を見に上京した祖母があまりの生活に涙していたらしい。
自分では苦とは思っていなかった生活も祖母のように、そう思ってなかった人は多く、池袋から通っている同級生の親御さんには夕食に招いてもらったりしていた。
食卓に並んだ、めちゃくちゃ量の多い料理を食べながら
「大変だね。おばさん泣けてくるよ」
などと言われたりもしたが、出された食事は平らげないと失礼に当たると教えられている帝京サッカー。
必死に料理を口に頬張りながら
「そんなことないっす」
と答えていた。
帝京高校は男女の比率が2対1で男子が多く、クラスの男子はほぼサッカー部か野球部だ。
野球部の奴らも当然、甲子園を目指して帝京に来ているのだから野球に掛ける思いは強い。
時代が時代なだけに、たぶんそれはサッカー部よりも強かったと思う。
奴らはノートの表紙に大きく『気魄』とか『白球』恥ずかしげもなく自筆していた。
そして、奴らは、皆んなが皆んな達筆で、サインとかも綺麗にサラサラ書いていた。
あの気魄ノートの中身はだいたい想像ができた。
そんな熱い奴らとクラスメイトなのだからサッカー部も感化されていたのだろう、お互い「全国制覇」を意識した学校生活だった。
「優勝」ではなく制覇というあたりが昭和だ。
野球部は春の選抜大会で惜しくも決勝戦で敗れたものの甲子園で準優勝。
遠征先のテレビで見た、彼らの姿は誇りに思った。
そして夏、東東京大会の決勝は神宮球場で奴らは関東一高に敗れ、夏の甲子園出場を逸した。
帽子を深く被り、自分たちが応援するスタンドの前に整列した。
泣いていた・・・。
競技は違えど同じ目標を掲げたクラスメイトの姿を見るのは辛かった。
そそくさにスタンドを後にした。
三連覇のかかった選手権だったがプレッシャーなど無かった。
選手権は一年生の時も二年生の時も優勝しているのだから負けた事がない。
自分たちの実力が無いのは分かっていたが、何か特別な力があると信じていた。
選手権に出ることではなく、胸の星を付ける為に帝京に来たのだ。
だが、準々決勝で呆気なく散る事になる。
試合が終わり、スタンドを見上げた時に涙は込み上げてきた。
目標を達成出来なかった悔しさなのかは分からない。
試合に負けた悔しさはあったと思うが、それだけではあんなに涙は出なかったと思う。
自分が努力したのにという気持ちでもなければ、いろんな事を我慢してきた解放感でもない。
たぶん、目標を共にしてきた仲間との別れだったのかと思う。
3年間という限られた時間は濃厚すぎた。
生死を彷徨っているんではないかという錯覚すら覚える事も多々あった。
かけがえのない経験を共にしたという仲間意識が、結束力を高めたのだと思うと当時の帝京サッカーが強かったのが分かる。
冒頭の今の高校生の気持ちがどうかなど関係はない。
選手権に対する想いは人それぞれ違って、いろいろな涙があるのは当然だ。
試合に出る選手、出ない選手がいて、そこにはマネージャーや保護者まで、大勢の人たちの関わりがある。
そしてそれは、これからの人生に於いてもついて回る。
偶然にもこのブログを書いている途中に、ある人と電話で話をした。
隣にいた友人への電話だったのだが、選手権一回戦でPK戦にもつれ込んだチームの選手、その人だった。
大阪の強豪高校の監督をしているその人とは38年前にも話した事はない。
38年越しに初めて話した話題は西が丘でのPK戦の話だった。
最後までご覧頂き、ありがとうございました。
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お前は作家かと突っ込まれる方もいらっしゃると思いますが、サッカです。