昇格の「貪欲さ」を知った、アマチュアの五日間
最近、全国社会人サッカー選手権大会(全社)に関するツイートをよく見かけます。
そのきっかけは、本田圭佑氏の発言のようですね。
自分自身がこの大会の存在を知ったのは、熊本で働き始めてからです。
当時、熊本は九州リーグに所属しており、そこで初めてJリーグへの昇格ルートを具体的に知ることになりました。
全社の歴史は古く、自分が生まれる前の1965年に第1回大会が開催されています。
同年、日本サッカーリーグ(JSL)も発足しており、全社はJSLへの加盟をかけた大会として、創設当初から重要な昇格ルートを担っていたことがわかります。
自分は高校卒業後すぐにJSLのチームに入ったため、正直なところ、「全社」の存在自体、当時はほとんど知りませんでした。
熊本の前身チーム(NTT熊本/アルエット熊本)を支えた当時の強化部長、高木裕司氏は、全社に特別な思いを持たれていました。
しかし、池谷監督と自分は、全社枠を「あくまで保険」程度にしか考えていなかった。
この意識の違いも、当時の状況を象徴していたのかもしれません。
アマチュア選手の現実と貪欲さ
これは10年以上前の話になりますが、監督としてJFL昇格を目指していた時のことです。
当時、チームにプロ契約の選手はおらず、選手全員が仕事をしながらサッカーに打ち込んでいました。
選手達は午前中に練習を済ませ、昼から夜まで仕事をするという生活です。
熊本時代の五年間と比べると(熊本では全員プロだった)、アマチュア選手としての「五日間連戦」がどれほど過酷かを肌で感じました。
私が監督に就任した年は、前年まで数名いたプロ選手がゼロになり、全員が仕事を持っていました。
とはいえ正社員はほとんどおらず、大半はサポート企業のアルバイト、あるいはイオンモール内のアパレル店や居酒屋でのアルバイトでした。
大会で休むということは、シフトに穴を開けるだけでなく、その分のアルバイト代も引かれるということ。五日間の連戦は、肉体的にも金銭的にも大変な負担だったはずです。
それでも彼らは皆、JFL昇格という希望を持ち、貪欲にサッカーに打ち込んでいました。
熊本でコーチ・監督としてプロ選手と接した五年間と比べ、働きながらサッカーをするアマチュア選手の方が、サッカーに対する「貪欲さ」はより強かったように感じます。
昇格し続ければ、自分たちの生活が、そして未来が変わる。
その純粋な思いが彼らを突き動かしていたのでしょう。
もちろん、そんな甘い世界ではないということは常々選手に話していました。
「クラブが昇格すれば、新しい選手が入ってくる」のは当然の現実です。
選手たちもそれを理解していたとは思います。
それでも、彼らは夢を持って、一日一日、サッカーにも仕事にも懸命に頑張っていた。
過酷な昇格レギュレーション
当時の四国リーグのレギュレーションは、1位が地域決勝大会(現:地域チャンピオンズリーグ、通称「地決」)に出場でき、全社枠はわずか1チームに与えられていました。
全社は山口県で五日間の連戦。
地決のグループリーグは高知県で金・土・日の三日間連戦。
さらに、決勝リーグは翌週に千葉県で金・土・日と戦う、過酷なスケジュールでした。
社会人サッカーの常識として、この過酷さが「普通」なのだと受け止めていましたし、最初からこのレギュレーションが決まっていたからこそ、それに合わせたトレーニングやゲームマネジメントを徹底して考えていたのです。
勝利への飽くなき執着と規律
私たちの戦術の根幹は、極めてシンプルで厳格な「規律」にありました。
とにかく点を獲る。
そして、前半で3点、4点を奪ったとしても、一切緩めることは許しませんでした。
交代で入る選手に対しても、要求の厳しさは変わりません。
徹底的に意識させたのは、攻守の切り替えです。
このレベルのアマチュア選手にしばしば見られるのが、攻撃の選手の「守備への怠慢さ」でした。
前線の選手であろうと、ボールを奪われたら即座に追いかける。
これを最も厳しく要求しました。
小難しい戦術よりも、チームのために戦う「犠牲心」と「規律」を何よりも重視したのです。
その犠牲心は、ただ一つ、「勝つ」という目的のために存在しました。
リーグ戦では、当時ライバルだったヴォルティスセカンド(現在は解散)との一騎打ちでした。
前期で勝利していたため、後期は引き分けでも優勝は可能でしたが、試合を緩めるという選択肢は取りませんでした。
どんな試合でも最後まで攻め続ける戦いを選手に求めたのです。
5点差以上の試合でも攻め続ける。
負けてる相手にとっては、嫌味に取られても、おかしくないくらいにピッチサイドで選手に指示をしていました。
自分は、地決(地域決勝大会)で勝つために全社(全国社会人大会)をシミュレーションとして利用しました。
情報戦ができなかった時代の戦い方
当時は今ほどインターネットが普及していなかったため、対戦相手に関する情報はほとんど手に入りませんでした。
「相手がどんなサッカーをしてくるのか」など、試合前に知る術はなかったのです。
まさにぶっつけ本番。
そのため、相手チームを意識するのではなく、「自分たちのやり方」を強引に押し通すサッカーを貫きました。
元Jリーガーを要する長野(AC長野パルセイロ)や相模原(SC相模原)のような強豪に対しても、小細工は一切なし。
奪ったら速く攻める、奪われたらすぐに奪い返す、という攻守の切り替えの徹底だけで戦い、勝ち続けました。
五日間の連戦は、選手たちにとって想像を絶するほどの体力の消耗があったはずです。
しかし、彼らは疲れを一切見せず、5試合目となる決勝戦でも、長野を圧倒し、走り勝ちました。
決して選手の人数が多いわけではありませんでしたが、誰が出てもチームのパフォーマンスが落ちることはありませんでした。
それは、皆が同じ「規律」と「勝利への貪欲さ」を共有していたからだと思います。
ピッチ内の「鬼」と、トレーニングの熱量
この「規律」を選手たちに染み込ませるため、トレーニングでは非常に厳しく、そして熱量の高い要求を課していました。
当時の練習の核は、そのほとんどが実戦を想定したゲーム形式です。
そこで最も重要視し、絶えずチェックしていたのが「攻守の切り替え」でした。
ボールを奪われた瞬間、一瞬でも立ち止まったり、反応が遅れたりする選手がいると、容赦なく厳しい口調で叱責しました。
その時の自分は、まさしく『鬼コーチ』そのものだったと思います。
特に怠慢さが目につく攻撃の選手に対しては、遠慮なく声を荒げました。
アマチュアの環境だからこそ、プロの世界で戦うための最低限の基準、つまり「ボールを失ったら全員が守備をする」という犠牲心を、徹底して教え込まなければならないと考えていたからです。
選手たちは、常にピッチサイドで大声を出し、少しでも集中が途切れると激しく感情を露わにする自分の姿に、最初は戸惑っていたと思います。
ピッチ外での「フレンドリーな接し方」
しかし、この厳しさはピッチの中だけでした。
一旦、練習が終わってピッチを離れれば、私は一転して選手たちとはフレンドリーに接しました。
あれだけトレーニング中は激しく、厳しい口調だったにもかかわらず、練習後は、まるで昔からの友人であるかのように、他愛のない話や、時には真剣な悩みの話までしていました。
もちろん選手たちは「なぜ監督はピッチの中でだけ豹変するのだろう」と最初は戸惑い、きっと自分のことを二面性のある人間だと思っていたかもしれません。
しかし、時間をかけて自分という人間を知るようになり、「ピッチの中の厳しさ」と「ピッチ外のフランクさ」の切り替えが、彼らにとって当たりになっていきました。
サッカーにおける「規律」の真の意味
「規律」という言葉だけを聞くと、「がんじがらめに縛られて、自由がない」というネガティブな印象を持つかもしれません。
しかし、サッカーの本質は、選手が自分で状況を判断し、自分でプレーに移す「自己判断の連続」です。
自分が目指した「規律」は、個々の判断の自由を奪うものではありません。
サッカーにおける規律とは、「チームとして同じ目標に向かうための、共通の指針」だと考えています。
「ボールを失ったらすぐにプレッシャーをかける」という規律は、個々の判断の自由を奪うものではなく、全員が共通の指針を持つことで、「あいつが奪いに行ってくれるから、俺はカバーに入る」というように、次に何をすべきかの判断速度が上がり、かえってピッチ上で大胆にプレーできるようになるのです。
勝つためには、このチーム規律を全員が深く理解し、実行することが絶対条件だと思っていました。
戦術より優先したコミュニケーションの力
チームの規律を深く理解してもらうためには、指導者と選手間の強固な信頼関係が必要です。
だからこそ、自分はピッチ外で、選手と多く話をしました。
話す内容は、サッカーのことよりも、彼らの「人生」に関することです。
「今の仕事は大変か?」「家族は元気にしているか」「これまでのサッカー人生は?」
本当に普段から彼らの内面に耳を傾けました。
彼らはプロではありません。
仕事をしながら夢を追うアマチュア選手たちです。
プロの夢を諦めきれずにここに来た選手や、一度はプロ契約を解雇され、這い上がろうともがいている選手。
彼らは皆、心の中に熱い炎を抱える一方、アマチュア生活の厳しさや将来への不安を抱えていたのも事実です。
私のピッチ外でのフレンドリーな接し方は、「サッカーだけでなく、人生そのものを見てくれている」という安心感と信頼感に繋がって欲しかったからです。
その結果、チームに生まれていったのは、表面的な仲の良さではなく、「このチームで、この仲間と必ず上へ行く」という強固な一体感でした。
戦術よりも先に「一体感」という強い絆を持つことが、勝利に繋がるのだと考えていました。
この「一体感」こそが、五日間の過酷な連戦で疲労困憊の状態でも、彼らに最後の決勝戦まで走り勝たせるエネルギーとなったのです。
勝利はまず、選手たちの心の繋がりから生まれるものだと、この経験から学びました。
勢いそのままに「ダークホース」へ
全社(全国社会人大会)で優勝を果たしたことで、チームは一転、地決(地域決勝大会)において一躍「ダークホース」的な存在として注目されるようになりました。
選手たちは、日々の練習と仕事を頑張りながら自信と勢いを身につけていました。
高知県での予選リーグ3試合、そして千葉県での決勝リーグ3試合。
勝利への貪欲さと、ピッチで培った強靭な規律をもって、全ての試合を勝ち切ることができました。
結局、この年、自分たちは公式戦を全勝で終えるという快挙を達成しました。
この結果は、昇格というクラブの目標を達成しただけでなく、自分自身の指導者人生における基盤となったのです。
戦術と選手の「適性」を見極める目
もちろん、サッカーにおいて戦術は非常に大切です。
しかし、このアマチュアの環境で、自分はそれ以上に重要なことを見つけました。
それは、「その戦術が、目の前の選手層にとって理解できるものなのか、そして実践できるだけの能力を持ち合わせているのか」を見極めることです。
戦術理論を語ること自体は容易かもしれません。
しかし、指導者にとって真に求められる技量とは、その理論を、その選手たちに合わせて咀嚼し、彼らが最大限のパフォーマンスを発揮できる形で伝え、落とし込む能力です。
選手たちが「やろうとしていることが理解できない」「難しすぎて実行に移せない」と感じた瞬間、どんなに素晴らしい戦術も、ただの絵空事に終わってしまいます。
指導者は、自身が伝えられる技量を持ち合わせているか、常に自問自答し、選手たちのレベルとチームの状況を冷静に見極めることが大切だと痛感しました。
勝利に不可欠な「心理学的」要素
そして、指導者にとって不可欠だと強く感じたのが、「心理学的」な要素です。
アマチュア選手が仕事の合間に練習し、過酷な連戦を戦い抜くためには、単なる戦術の浸透以上に、高いモチベーション、チームの一体感、そして絶対的な信頼がなければ不可能です。
彼らの人生と向き合い、内面で抱える不安や葛藤を理解し、それを夢へのエネルギーに変える力が必要でした。
心理学的要素とは、選手一人ひとりが持つ「心」のトリガーを理解し、最適なタイミングで適切な言葉やプレッシャーを与えることです。
試合中の僅かなミスに対して、なぜ厳しく叱責するのか。
勝った後に、なぜ満面の笑みで冗談を言い合うのか。
その一つ一つが、彼らの心を動かし、最終的に「規律」という形でチーム全体を同じ方向へ導くためのアプローチでした。
ピッチで選手と共にサッカーをしたい指導者であり続ける
自分自身、昔ながらの「監督然」とした指導者でありたいとは、今でも思っていません。
監督は、チームをまとめ、最終的な決定権を持つ役割ですが、自分の理想は、あくまでピッチで選手と一緒にサッカーをしたい指導者であり続けることです。
この「一緒にサッカーをしたい」という感覚は、単なる精神論ではありません。
選手と同じ目線、同じ熱量で試合に臨み、彼らの喜びや苦しみを共有する姿勢です。
「チームのために走ろう」「監督の要求だからやり遂げよう」
選手たちがそう思ってくれた時、自分たちのチームは、戦術やフィジカルの差を覆すほどの強さを手に入れたのです。
この全勝という経験は、指導者人生において、「戦術は道具、心と規律こそが原動力である」という哲学を確立させてくれました。
