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あの時の回顧

先日、X(Twitter)でもあげましたが高知ユナイテッドのJリーグ参入の条件である観客動員数のツイートです。

JFL首位を走る高知ユナイテッドが観客動員を図るべく、いろんなアイデアを出して頑張ってる記事を読んで十数年前を思い出しました。

カマタマーレ讃岐が勝負の年と意気込んだJFL三年目、念願だったJリーグに参入した時の事を回顧してみます。

JFLを4位になり、天皇杯でもサガン鳥栖を破り、浦和レッズに善戦した事もありチームの成長を感じていました。

社長が住谷さんから熊野さんに代わり、クラブとしても今年こそという気持ちは強かったと思います。

ただ、前の年にJリーグ準加盟申請を取り下げていたのでライセンスが交付されるかという心配はありました。

熊野社長からは

「ライセンスはこちらがなんとかするから、勝ってくれ」

とは言われたものの、勝つためには戦力と環境も必要なのです。

シーズン前には補強と練習環境の改善を求めましたが

「無い袖は振れない」

とだけ言われていました。

そんなやり取りも毎度のことで、無いものは無いのですから仕方ありません。

今あるものでやるしか無いのです。

野球王国の四国で元々、サッカー人気の無い香川県ですから天然芝のピッチどころか人工芝のピッチだって少なかったのです。

今でこそ立派なクラブハウスとトレーニングセンターが出来ましたが、当時は大変でした。

選手達もプロといっても報酬額は少なく、アルバイトをしていた選手は沢山いました。

あの頃、みんな思っていたのは

『Jリーグになれば変わる』

だったのです。

熊野社長が自分達によく言っていました。

「風は吹いとる。あとは火を点けるだけや。」

行政もスポンサーも『Jリーグに上がれば』というお決まりの枕詞です。

勝つ事で全てが変わる、それだけを信じてフロントも現場も、頑張ったんだと思います。

ライバルは、長野パルセイロ、町田ゼルビア、SC相模原そしてHONDAでした。

スタートダッシュに成功した自分達は前期を首位で折り返します。

そうなると、いよいよJリーグ参入が現実味を帯びてきます。

選手達も行けるぞという気持ちになってたはずです。

自分達スタッフだって選手達には厳しく言いながらも、皮算用しながら勝点を計算していました。

しかし、そう上手くいかないのが勝負の世界です。

後期に入って勝てません。

特にアウェイではミスが多く、自滅する試合が続き、思うように勝点を伸ばす事が出来ませんでした。

ちょうどその頃、Jリーグから財務基盤がJ2の水準に達していないのと、有料入場者数を指摘されたのです。

チームが勝てない、ライセンスが交付されないかもと一気にお尻に火が点いてしまったのです。

それはファンやサポーターの皆さんも同じだったはずです。

いま思えば、あの時にカマタマーレ讃岐は一体になったのかも知れません。

熊野社長を先頭にしたフロントは資金集めに奔走しました。

選手達は試合前後のファンサービスやチラシ配りにも積極的に取り組んでくれました。

熊野社長もスタジアムを隈なく歩き、観客席でファン、サポーターに訴え掛けていました。

今思えば、チームもさる事ながらフロントも脆弱で、本当に少ない人数でした。

それを知っているファン、サポーターも一緒になって駆けずり回ってくれました。

地元メディアである四国新聞の記者さん、西日本放送や瀬戸内海放送のアナウンサーさんも必死に後押しをしてくれました。

自分達と同じようにJリーグになれば、Jリーグに上がれば変わると皆んなが思ってくれていたのだと思います。

 

その年のレギュレーションは、優勝すれば自動昇格、2位になれば入れ替え戦でしたが、翌年はJ3が設立される予定でしたので準加盟さえしていれば、J3ですがJリーグだったのです。

ある人は言いました。

「J3でもJリーグなんだから無理しなくても良いだろう」

確かにそうなんです。

J3でもJリーグには違いがないのです。

ですが、新しいカテゴリーのJ3がどんなものか分かりません。

ロゴだってJ3だけ違うのですから自分達にとってはJ2に参入する事だけがJリーグへの昇格だったのです。

実際、昇格後に感じたカテゴリーの格差は想像以上でした。

それはシーズン前に行われるJリーグカンファレンスで直ぐに目の当たりにしました。

都内の高級ホテルで行われたカンファレンスは、取材や宣伝の為に各クラブのブースが並んでいるのですがJ1・2はテレビカメラや取材陣も多く、これぞプロリーグといった華やかな場所でした。

かたや通路を隔てたJ3のブースは取材陣もいない、狭い閑散とした場所だったのです。

今はJ3もチーム数が増え、そんな事はないとは思いますが当時の格差に驚いた事を思い出します。

 

チームの方は劇的な改善は見られませんでしたが、なんとか勝ち点を拾いながら首位の長野を追いかけていました。

ご存知の通り、長野はライセンスを持っておらず条件を満たしてもJリーグへの昇格はありませんでした。

ですから、まずは2位を死守する事が昇格への最低限の順位だったのです。

11月の32節に2位を確定して、J2最下位チームとの入れ替え戦を決める事ができ、観客動員数もホーム最終節で、平均3,000人以上を達成する事ができたのです。

その後、無事にライセンスを取得し、入れ替え戦にも勝利してJリーグへ参入する事ができました。

香川県にJクラブが生まれ、何が変わったのか。

理念である、地域との関わりはどうなのか。

香川県は自分が生まれ育った故郷です。

今は離れているので正直どうなっているのか分かりません。

しかし、当時の思いは忘れていません。

カマタマーレ讃岐をスペインのアスレチック・ビルバオのようなクラブにしたいと取材で何度か言っていました。

「今は無理だけど、十数年後かには地元の選手だけで戦えるチームになる事が夢で、そうなれば、親や兄弟、親戚はもちろん近所の人が応援してくれます。それこそが本当のオラが街のクラブになると思います」

二週間に一度のホームゲームに多くの人が集まり、地元のクラブを応援する。

そこには子供の頃から知っている選手がいて、隣には同じ学校だった友人がいた。

そんなローカルなコミュニティが生まれて欲しいなんて、だいぶ無理はありますが、本気で思っていました。

 

 

自分自身、なんとかスポンサーをお願いするのに、当時、いろんなところで講演をしました。

その最後に言っていた言葉です。

『レベルの高いサッカーを見たければ岡山や徳島、愛媛に行けば良い。

でも、ピカラに行けば地元のチームを応援できます。

甲子園の高校野球と同じなのです。

いくら野球に興味がなくとも、地元の高校は気になりますよね。

日本一小さな香川県です。

うどんを全面に出したカマタマーレ讃岐というネーミング。

サッカーは世界と繋がっています。

将来、カマタマーレ讃岐はクラブW杯に出てイタリアのナポリと戦います。

テレビに映るカマタマーレ讃岐のエンブレムを見たイタリア人はこう言います。

「なんだ、あのパスタは」

次の年、香川県のうどん屋さんはイタリア人で溢れかえるはずです』

最後まで読んで頂きありがとうございます。

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