2009年シーズン、J2リーグ最終順位14位という結果をもって、ロアッソ熊本での私の挑戦は一旦幕を閉じました。
攻撃面ではトップ指導者から賛辞を受けるほどの「立ち位置の戦術」の一端を開花させたものの、守備における致命的な欠陥、そして結果の伴わなかった現実が、私をJリーグの監督の座から引きずり下ろしました。
手応えを掴んだかのように見えたポゼッションフットボールへの挑戦は、たった一年で終わりを迎え、同時に私のJリーグ監督としての道も、一旦潰えたのです。
サポーターとの絆と、愛着ある街との別れ
序盤、バックパスをするたびにブーイングしていたサポーターも、多彩な攻撃でゴールを奪うシーンが増えるにつれ、勝ち点こそ積み重ねられませんでしたが、私たちのフットボールを楽しんでくれたと思っています。
そしてシーズン終盤。
結果が出なかったにもかかわらず、スタンドに掲げられた「熊本スタイル断固支持」と書かれた弾幕を見た時は、こみ上げるものがあり、涙が出ました。
しかし、プロの世界の現実は非情です。
5年も過ごした、住み慣れた、大好きになった街を離れなければならない。
プロの監督にとって、それは当たり前のことです。
結果が出なかった私には、もうクラブから必要とされない。
その寂しさを噛み締めながら、結果がすべてというプロの鉄則を改めて痛感しました。
スペインで見た美しい理想のフットボールと、日本プロサッカー界の厳しすぎる現実を、まざまざと垣間見た一年となりました。
理想のポゼッションが欠いた「本質」
熊本での挑戦を通じて、私はポゼッションフットボールの本質を見逃していたことを痛感しました。
「攻撃と守備は表裏一体である」
私が目を奪われていたのは、流れるようなパスワークという「表の美しさ」だけであり、ボールを奪われた瞬間に猛然とボールを奪い返すという「裏の守備の意思」を、チームに浸透させることができませんでした。
監督として、根幹をなす最大の要素を伝えきれなかったという事実が、私のプロ監督としての初挑戦を挫折に導いたのです。
新天地:四国リーグとカマタマーレ讃岐
Jリーグ監督としてのキャリアが途切れた後、私は2010年シーズン、四国サッカーリーグに所属するカマタマーレ讃岐へと活躍の場を移しました。
これは、新たな、そして決定的な意味を持つ挑戦でした。
カマタマーレ讃岐は、当時JFL昇格を目指す途上にあり、「一年で昇格しなければならない」という明確で絶対的な目標がありました。
讃岐の前任者は羽中田昌監督でした。
羽中田監督はバルセロナで指導者の勉強をされていた方であり、チームはポゼッションを志向していたいました。
しかし、その映像や選手のトレーニングを見たとき、私は愕然としました。
それは、熊本で私が実践しようとした「立ち位置の戦術」とは全くの別物でした。
そして、客観的に選手の質、技術レベルを評価したとき、とうていポゼッションフットボールは無理だと判断せざるを得ませんでした。
理想より現実:「堅守速攻」への覚悟
カマタマーレ讃岐での私の使命は、明確でした。
一年で昇格しなければならない。
これは、熊本の時とは決定的に違う状況でした。
「理想のフットボール」を追及する猶予はもうありません。
理想より現実。
勝つことを優先しなければならなかった。
ポゼッションフットボールへのロマンは一旦胸にしまい、勝つための、最も堅実で効果的な戦術へと舵を切る必要がありました。
私の指導哲学は、この時、大きな転換期を迎えることになります。
ハードワークの徹底とJFL昇格
この転換において、私が最も重視したのは、熊本での反省を活かした守備の再構築でした。
熊本では「奪われた後のファーストプレス」の徹底ができなかったがゆえに敗北しました。
その教訓から、讃岐ではハードワークをチームの守備の柱としました。
緻密なポジショナルプレーは求めず、運動量の最大化、球際の厳しさ、そしてチーム全員での献身的な守備を徹底しました。
この「堅守速攻」のスタイルが、結果を求めるチームに強烈にフィットしました。
私たちは四国リーグで優勝を果たし、さらにJFL昇格をかけた全国地域サッカーリーグ決勝大会に挑みました。
そこでも我々の「勝ちにこだわるサッカー」は力を発揮し、6試合負けなしの圧倒的な強さで大会を優勝。
目標であったJFL昇格を達成したのです。
戦術的な美しさよりも、「泥臭く、ひたむきに勝つこと」。
カマタマーレ讃岐での挑戦は、理想のフットボールを諦め、指導者として最も大切な「勝負に徹する姿勢」を学ぶ、厳しい自己改革の道のりとなったのです。
しかし、私の目標は、JFLで終わることではありません。
Jリーグの舞台へ、チームをクラブを導くことでした。
JFLは、四国リーグとは比べ物にならないほどレベルの高い舞台です。
ここで勝ち抜くためには、さらに戦術的な成熟と、フィジカル的な強度が必要でした。
超攻撃的システムの「守備的運用」
JFL昇格後、私はチームにさらなる強度を高めた守備を意識付けました。
ポゼッションを志向しないチームにおいて、ボールを失うことを恐れず、むしろ積極的に奪いにいく守備をデザインする必要がありました。
私たちはストライカーとして京都サンガから西野泰正を獲得しました。
彼は高い得点能力を持つ選手でしたが、熊本時代の「ボールを収めるポゼッションタイプ」ではなく、純粋なストライカーでした。
私が彼に求めたのは、ゴールを奪うこと以上に、アグレッシブな守備を前線で徹底すること。
つまり、チームの守備の最初のスイッチを入れる役割です。
私は彼を、フォワードではなく、「ほわーだー」と名付けました。
これは、前線で激しくディフェンダーのようにボールを追いかけ、守備の起点になるという、私の新たな守備哲学を体現する名前でした。
西野選手は、この「ほわーだー」の役割を見事に果たし、チームの守備意識を劇的に高めてくれました。
3-3-3-1の起源と「守備的運用」
この守備の連動性を高めるために導入したのが、3-3-3-1というシステムです。
S級ライセンスの同期であり、親交の深い安間貴義氏との会話からそのヒントを得ました。
このシステムは、アルゼンチンの名将マルセロ・ビエルサ監督が採用していたことで知られています。
私は、このシステムが持つアグレッシブさに魅力を感じ、色々な手を使い、アテネオリンピックのアルゼンチン代表の映像を探し出し、徹底的に研究することから始めました。
超攻撃的システムの「守備的運用」
3-3-3-1というシステムは、本来、前線に多くの人数を配置する超攻撃的な布陣として知られています。
しかし、これを守備に当てはめました。
キーとなったのは、中盤と前線の配置です。
このシステムは、選手間の距離が短く、パスコースが多くなる反面、各ラインに3人ずつ(または4人)が配置されることで、ボールに近い選手が必ず複数いる状態を作り出します。
- 連動したプレス: 奪われた瞬間、ボールに近い選手がプレスをかけるだけでなく、中盤の3人(またはウィングバックを含む)が連動して次々とボールを奪いに行けるように組織化しました。
守備が機能し始めると、自然と攻撃にも命が吹き込まれました。
次から次へとボールを奪いに行く守備は、相手ゴールに近い位置でボールを奪い返す機会を増やします。
奪ったら追い越す「高速カウンター」
奪ったボールは、ポゼッションを試みることなく、即座に縦へ加速させました。
奪ったら、後ろの選手が前の選手を追い越して行く。
この原則を徹底することで、単なるロングボールではなく、数的優位を作った状態での高速カウンターで得点を奪うことが可能になったのです。
このスタイルは、堅守速攻という言葉では片付けられない、守備の破壊力を攻撃に転換するという、極めて現実的かつ効率的なフットボールでした。
そして、この堅守速攻フットボールが、長きにわたりカマタマーレ讃岐のお家芸として定着していくことになったのです。
悲願のJ2昇格をかけた最終決戦へ
この守備を核としたリアリスティックな戦術が結実し、カマタマーレ讃岐はJFLでの地位を確固たるものにしていきます。
そして、J2昇格を目指す戦いの中で、私にとって心強い出来事がありました。
ロアッソ熊本で共に戦った選手たちが、私の元へ集まってくれたのです。
彼らにとって、熊本時代に目指したフットボールと、讃岐で実践している180度違うスタイルは、戸惑いもあったことでしょう。
しかし、彼らは私を信頼し、新たな守備の戦術とハードワークをしっかりと役割として果たしてくれました。
さらには選手だけではなく、コーチの上村健一までもが来てくれ、この旧知の仲間たちの力が、チームの核となり、私のフットボールを支えてくれたのです。
私たちはJFLで強豪としのぎを削り、最終的にリーグ2位という成績を収め、入替戦への切符を掴みました。
この入替戦、第二戦アウェイの地であげた決勝ゴールこそ、もう1人の「ほわーだー」アンドレアから生まれたメモリアルゴールになったのです。
次回、悲願のJ2昇格をかけた最終決戦へと続きます。
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応援してもらえると泣いて喜びます。

