腹の底から笑いたい

堅守の彼方に見え光

監督という職業は、常に理想と現実の狭間で揺れ動くものです。
特に、私がカマタマーレ讃岐の指揮を執った日々は、その葛藤の連続であり、同時に私自身のサッカー哲学が、より現実的で、より強固なものへと昇華されていった時間でした。
ロアッソ熊本で私が追い求めたサッカーとは、まさに180度異なる道でした。
それは、私自身が「生き残る」ための、そして「チームを生き残らせる」ための、苦渋の選択であり、覚悟の表れでもあったように思います。

 

熊本の理想と讃岐の現実

 

ロアッソ熊本では、私は「アグレッシブな攻撃サッカー」を志向していました。
観客を魅了し、多くのゴールを奪うことで勝利を掴む。
それが私の理想であり、選手たちにもそれを求めていました。
もちろん、守備の重要性を軽視していたわけではありませんでしたが、あくまで攻撃が主軸であり、守備はそれを支える脇役のような位置づけでした。
今考えれば、独りよがりで自分の事しか考えていなかったのだと思います。
S級ライセンスを取得したばかりでプロの監督とはどういうものなのか分かっていなかったのです。
当時、周囲から「日本代表よりもパス回しが上手い」といった論調が少なからずあり、それを真に受けて自分を調子に乗らせていた節もありました。

しかし、カマタマーレ讃岐での現実は、あまりにも厳しかった。
JFLからJ2昇格を目指す、あるいはJ2で生き残るという状況は、熊本時代とは全く異なる前提条件を突きつけられました。
資金力、選手層、練習環境、どれを取っても恵まれているとは言えません。
そのような中で、攻撃的なサッカーを展開し、真っ向勝負でJリーグの強豪クラブに挑むことは、あまりにも無謀だと感じました。

「結果がすべて」監督として当然のことですが、この言葉の重みが、讃岐ではこれまで以上に私の心にのしかかってきました。
理想を追い求めて敗れるよりも、泥臭くても、美しくなくても、「結果として勝利を掴むこと」こそが、このクラブが生き残る唯一の道だったのです。
だからこそ、私のサッカー哲学は、大きく方向転換しました。
攻撃から守備へ、魅せるサッカーから、「耐え抜き、凌ぎ切るサッカー」へ。
それは、自分自身のサッカー観を壊し、再構築するような、プロセスでした。
あの時の変なプライドを破り捨てなくてはならなかったのです。

 

「堅守ありき」の戦術とシステム選択

 

「堅守ありき」の哲学を具現化するため、私はシステムを固定せず、柔軟に使い分けました。
これは、単に流行のシステムを取り入れるのではなく、チームの特性、選手個々の能力、そして対戦相手の分析に基づいた、極めて戦略的な判断でした。

4-4-2システムは、攻守のバランスが取りやすいベースとなる形でした。
中盤の4人が横一線に並び、強固なブロックを作り、相手の中央侵入を許しません。
サイドの守備連携を徹底し、サイドハーフとサイドバックの連動で深い位置まで戻り、数的優位を作り出しました。
前線の2トップには、闇雲なプレスではなく、ボールに関係なく中盤の選手の前に戻り、ブロックが機能するための「スイッチ」としての役割を担わせました。
ボールをどんなに振り回されても「迷子にならない」ポジショニングは、メンバーを固定しなくても良かったからという理由もありました。

一方、4-1-4-1システムは、守備の安定感と、中央への圧力を高め、スムーズに攻撃に移りたい場合に採用しました。
ボランチの一枚をアンカーとして最終ラインの前に配置することで、セカンドボールの回収や相手の縦パスのインターセプトを狙いました。
ワントップが相手ボランチを背中で切り、インサイドハーフも連動してサイドへ誘導する効果的な守備を求めました。
奪ったボールはロングカウンターではなく、ボールを繋ぎながらカウンターを仕掛けられるシステムです。
のちのFC岐阜でも採用しましたが、決まる時は抜群の効果を出しましたが継続させるには時間がありませんでした。
これらのシステムは、相手の特徴や試合展開に応じて使い分け、常に最も効率的に勝利を掴むための手段でした。

 

ベテラン攻撃陣の「犠牲心」と「献身性」

 

守備を構築する上で、私が最も重視したのは「規律」でした。
個々の能力に依存するのではなく、チームとして一つの塊となり、連動することで相手の攻撃を封じる。
そのためには、選手一人ひとりが自分の役割を理解し、それを徹底して遂行する規律が不可欠でした。
「チームのために走る」「チームのために体を張る」。
この言葉を、私は選手たちに繰り返し伝えました。

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