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カテゴリーという「壁」を壊した日

安間貴義氏の言葉と、メニーナが私に突きつけた「フットボールの真髄」

先日、日テレ・東京ヴェルディメニーナの試合を観て、衝撃を受けました。
正確には「衝撃」という言葉では足りません。
それは、長年プロの現場で飯を食ってきた私という人間の「凝り固まった固定観念」への、鮮やかな平手打ちのようなものでした。

その時、懐かしい男の声を思い出しました。

「マコさん、カテゴリーなんて関係ないですよ。マコさんのサッカーをやればいいんですから」

それは、私がロアッソ熊本を離れ、カマタマーレ讃岐へ移る時に、安間貴義氏(前・ジュビロ磐田監督)からの言葉でした。当時の私は、J2から四国リーグへ移る自分をどこかで「島流し」のように自嘲していました。
だからこそ、舞台が変わってもフットボールの本質は変わらないのだと、私に釘を刺してくれたのです。

ですが、あの時の私には、その言葉の本当の重みがまだ分かっていませんでした。

泥臭き「生存戦略」と長居スタジアムでの傲慢

私の記憶にあるフットボールは、もっと泥臭く、殺伐としたものでした。
私は早々に理想を捨て、「生存」のためのシフトチェンジを余儀なくされました。低く構えた4-4-2のブロックで耐え、ワンチャンスを仕留める。

どれだけ攻め込まれても、最後に一点を取って勝つ。相手からすれば、圧倒的に攻めていたはずなのに、気づけば網に掛かったかのように敗北している。そんな「不気味でヤンチャなヒール軍団」としての誇りが、当時の私の「矛」だったのです。

そんな私が、初めてメニーナを観たのは2021年の皇后杯でした。 ノジマステラの監督として長居スタジアムにいた私は、第一試合の「INAC神戸対メニーナ」を、コンコースで自チームのアップを見守りながら、遠目で眺めていました。

当時のINACはWEリーグの初代女王。片やメニーナは、中高生の女の子たちです。
正直に言えば、当時の私は一分の興味も持っていませんでした。「プロのトップチームを率いる自分」にとって、育成年代の女子サッカーは、「サッカーの上手な女の子」程度にしか見えていなかったのです。

結果は、メニーナがプロの女王を破るという大金星でした。驚きはしましたが、その時の私はまだ「プロがアマチュアに足を掬われたのか」という、勝負の不確実性への感傷しか持っていませんでした。
彼女たちが展開していたサッカーの「真理」に、一ミリも気づいていなかったのです。
それが、私の「傲慢」でした。

メニーナが突きつける「フットボールの概念」

それから月日が流れ、私は今、中学生の女の子たちを指導する立場にいます。
かつてJリーグで「狙われるもんより、狙うもんが強いんじゃ」と吠えていた男が、今は彼女たちに立ち位置の一つから教えています。
この視点に立って、改めてメニーナを観たとき、私はかつての自分を恥じました。

メニーナのサッカーを紐解くとき、多くの人は「技術が高い」と言います。
確かにその通りです。しかし、彼女たちの真の恐ろしさは、技術そのものではなく、その技術を「いつ、どこで、何のために使うか」という、圧倒的なフットボール・インテリジェンスにあります。

具体的に、私が衝撃を受けたポイントをいくつか挙げたいと思います。

1. 相手を引きつけ、剥がす「勇気」彼女たちは、「相手が来るまで待てる」のです。相手のディフェンスが自分に食いつくギリギリの瞬間までボールを保持し、相手の重心が崩れた瞬間に、パスを通し、あるいは自ら剥がしていきます。この「引きつける」が、チーム全体で共有されています。だからこそ、ピッチのいたるところで数的優位が生まれ続けるのです。

2. ポジショニングと「距離感」 ボールを持っている選手だけではありません。周囲の選手たちの距離感が、とてつもなく正確です。近すぎず、遠すぎず。誰かが顔を出す。ピッチに立っている選手全員がゲームに関わっています。シンプルでいて、美しい。そこには迷いも、無駄な力みもありません。

3. 「静」から「動」攻撃の美しさだけではありません。ボールを失った瞬間の「激しさ」です。さっきまで優雅にパスを回していた女の子たちが、ボールが相手に渡った途端、スプリントでボールを奪いに行きます。その切り替えのスピードは、男子のトップチームと比較しても遜色ない「質」を感じさせました。自分たちの「美しい時間」を維持するためには、「泥臭い作業」をしなければならないことを知っているのです。

確かに、男子と女子ではフィジカルもスピードも違います。試合をすれば到底、敵うはずがありません。
ですが、「フットボールという競技をどう解釈し、どう表現するか」という観点に立てば、メニーナのサッカーには、男子のチームが喉から手が出るほど欲しがる「エッセンス」が詰まっています。

カテゴリーという壁を越えて

あれから長い年月が経ちましたが、私は今ようやく、安間氏が言った「カテゴリーなんて関係ない」という言葉の、本当の深淵に触れているような気がします。

Jリーグの監督時代、私は常に「結果」という目に見える数字に追いかけられていました。残留、昇格、降格。それらは指導者の評価を左右する絶対的な物差しです。しかし、中学生の女の子たちを教える今の私にとって、最も重要な物差しは、目の前の選手たちが一歩ずつ「フットボールの本質」に近づいていくプロセスそのものになっています。

メニーナの選手たちがピッチで表現していたあの輝きは、一朝一夕で身につくものではありません。彼女たちが中学生の頃から、あるいはそれ以前から、「なぜそこに立つのか」「なぜそのタイミングで離すのか」という問いに対し、指導者と共に気が遠くなるような回数の対話を重ねてきた証です。

 「私はプロの監督として、選手たちにそこまでの『真理』を説いてきただろうか」

もちろん、Jリーグの残留争いは戦場です。綺麗事だけでは生き残れません。
私が讃岐で築き上げた「輩」の精神や、相手をハメる戦術は、あの場所で生き抜くための正解でした。
しかし、その「生存戦略」の土台に、もしメニーナが持っているような「フットボールの解釈」がもっと深く根付いていたら、あのチームはどこまで行けたのだろうか。

 指導者としてのアップデート

なかなか男子のカテゴリーを見ている指導者は、女子のサッカーに目を向けようとはしません。「スピードが違う」「パワーが違う」という言い訳を用意し、自分たちの視界を狭めてしまっています。かつての私も、長居スタジアムのコンコースで、まさにその罠に嵌まっていました。

一度、メニーナの試合を観てください。
そこには、身体能力という誤魔化しが一切効かない世界で、それでも相手を凌駕するための「アイデア」が転がっています。

目の前のフットボールとどれだけ純粋に向き合えるか。安間氏が私に伝えたかったのは、技術的な話以上に、指導者としての「心の在り方」だったのだと、今になってようやく気づかされました。

 魔物に取り憑かれた輩の旅

中学生の女の子に教える難しさは、プロを教える難しさとはまた別次元の面白さがあります。
舞台がJリーグやWEリーグでなくても、私がフットボールを追求する情熱を失わない限り、そこは常に「最前線」なのです。

いつの日か、私が今教えている選手たちが、メニーナの選手たちのように自由闊達に、そして勇敢にピッチを支配する日が来ることを夢見ています。

「マコさんのサッカーをやればいい」

安間氏のその言葉を胸に、私はこれからも、カテゴリーという壁を壊し続けます。
自ら足を運び、泥にまみれ、新しい知性と出会い、自分をアップデートし続ける。
それが、フットボールという魔物に取り憑かれた輩の、「幸せな旅」なのです。

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