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ロアッソ熊本が創立20周年だそうだ。
鶴屋百貨店でのお披露目式がもう20年前なのだと思うと感慨深い。
菜の花が一面に咲いた景色は圧巻で、夏の夕方は必ずと言っていいほど夕立があり、雨の粒が大きい。
裏の雑木林に行けばカブトムシがいて、運が良ければオオクワを発見できて、普通に蟻がデカい。
壮大な石垣の熊本城下は市電が走り、ビルが立ち並ぶ大都会。
なんの下調べもせず、右も左も分からない熊本の地へ飛び込んだ20年前、自分の人生において大きな岐路になるなど想像もしていなかった。
あの一年がすべての始まりだった。
京都サンガのアカデミーコーチだった自分に日立時代の先輩、池谷さんから電話があった。
「今度、熊本でJリーグを目指すチームを作るんだけど、サンガ出身で燻ってる選手がいたら紹介してよ」
換気扇の下でタバコを吸いながら電話をしていた、あの時の光景は何故か今でも鮮明に覚えている。
アカデミー出身の何人かの選手が頭に浮かんだが、後日改めて連絡しますと電話を切った。
ちょうどその頃は、来期の配置転換、契約満了など、いろいろな憶測が飛び交うゴタゴタした時期だった。
自分自身も来期はどうなるか分からない状態だったのも事実で、満了になったらどうするものかと考えていた。
二日後、電話で何人かの選手を紹介すると共に
「池谷さん、コーチは探してますか」
と聞いてみた。
誰かいるのという言葉と同時に
「俺です」
と即答した。
コーチ候補は何人かいたようだが話はトントン拍子に進み、運良くJリーグを目指すクラブのコーチに自分を選んでくれた。
A級コーチのライセンスを持っているとはいえ、大人を指導した事はなく、たかだか育成年代を5年しか指導経験の無いコーチだ。
しかし、そこは36歳。
まだまだ血気盛んな若造は先の事など考えておらず、新たな挑戦が出来るという希望だけしか見えていなかった。
当時のクラブ名はロッソ熊本、阿蘇をモジったロアッソはまだ先の話で、そのロッソ熊本は九州リーグ所属のアルエット熊本から移管され、新たにJリーグを目指すクラブだ。
自分の初めての仕事は熊本県民総合運動公園陸上競技場、今のえがお健康スタジアムで行ったセレクションだった。
セレクションには全国から選手が集まり、数台のテレビカメラが回っている中で行われた。
トレーニングとゲームを仕切らせてもらったのだが、メチャクチャに緊張したのを覚えている。
つい先月まで高校生相手のコーチが地方局とはいえ、テレビカメラが回っている前でトレーニングをするのだから仕方がない。
張り切りすぎてしまったのか、セレクションなのに、まるで普通のトレーニングのようにフリーズを掛け、コーチングしてしまったのだ。
今思えば何故そんな事までしたのか笑ってしまうが、スタンドから見ている池谷さんからは選手の質が見やすかったと言われたので結果オーライだった。
合格した選手は九州リーグ所属ながら、全員がプロ選手として契約という今では到底考えられない待遇だ。
その多くは元Jリーガーで、地元出身の人気選手もいた事から大いに注目される存在だった。
阿蘇山の麓にある大津町に選手寮を構え、専有のトレーニング場ではないが、大津町や菊陽町の天然芝のピッチでトレーニングが出来るという抜群の環境。
熊本の芝生はどこも素晴らしく、のちに自分が監督になった時のスタイルは、この素晴らしい芝生だったからこそ考案したのだ。
雨でも水はたまらず、グラウンダーのパスが出来るのだから当然と言えば当然な事だと今でも思っている。
そんな最高の環境で朝から、時には午後も2部練習が出来るのだから本当に幸せだった。
だが、トレーニングはフィジカル中心のメニューが多かったので綺麗な芝生は関係なかったといえば関係なかった。
強いて言えば走って倒れ込んだ時、土より芝生の方が躊躇なく寝転べたところか。
確かにプロ選手と言っても、卓越した技術を持った選手も少なかったのだからコンセプト的には間違いではなかったと思う。
相手に走り勝てば勝負できるカテゴリーだったのだから。
ロッソができてから大津町のパチンコ屋さんの客足が減ったと耳にした事がある。
朝からパチンコを打っていたお年寄りがロッソの練習を見に行くようになったからだと言うのだ。
確かに朝の練習にはお爺ちゃん、お婆ちゃんの姿が多く、時にはボール拾いまで手伝ってくれていた。
注目が多いという事は、それを面白くないと思っている人もいる。
前身のアルエット熊本を応援していた人達の中には少なからず、そんな人もいたと思う。
熊本市街の中心にある鶴屋百貨店で多くの人が集まったお披露目式で
「ロッソいらねぇ」
「アルエット熊本」
などと、数人の人達が大声で叫ぶ声を耳にした。
昔から熊本のサッカーを牽引していた人達すべてが協力的ではなかったと思う。
その辺は池谷さんはじめ、フロント幹部の方々の苦労は相当あったのではないだろうか。
自分や選手達には、そんな声が聞こえないようにしてくれていたのだと思う。
いろいろな経験を経た、今の自分なら分かるが当時はそんな苦労がある事を知る由もなかった。
20年前のこの年からではなく、自分が熊本に来るずっと前からロアッソは始まっていて、その時の方々への感謝は絶対に忘れてはいけない。
新しい場所に来れば新たな出会いがある。
なんのゆかりもない熊本だったが、本当に多くの人と巡り逢わせてもらった。
そんな中、一年目から長年に渡ってずっと親身に接してくれる事になる、兄貴分ができた。
これまた、日立時代の先輩の中学時代の先輩という縁が結びつけてくれ、試合は皆勤賞で練習も紅茶花伝ロイヤルミルクティを片手に頻繁に顔を出してくれるので話をしているうちに打ち解けていった。
元サッカー選手だった、そのヤンチャな兄貴は顔が広かった。
熊本の人間はほとんど皆んな知っているような事を言うのが口癖なので、話半分に聞いていたが本当にそうなのだから驚く。
見た目や話し方は、お世辞にも良いとは言えない兄貴なのだが、周りにはいつも多くの人がいて、その職種もバラバラなのだから話題に事欠かない。
兄貴の若き頃の武勇伝を聞くのが、一番面白い。
矢沢永吉 熊本公演事件の話など、マジかと言うくらい信じられない話を周りの人達がしてくれるので本当の話なのだろう。
ただ、兄貴はTHE熊本で、生粋の熊本弁なのだ。
それも早口で捲し立てるのだから聞き取れなく、どぎゃんもこぎゃんもない。
自分がキョトンとしていると
「北野くん、聞いとっとか」
と突っ込まれるのだが、半分は何を言っているのか分からなかった。
ロッソ熊本として初めてのシーズンは九州リーグだったが、どんな試合をして、メンバーは誰だったか正直覚えていない。
とにかく毎日が必死だった事だけは記憶にある。
コーチングする対象が大人に変わった事もあり試行錯誤の連続だった。
紅白戦のレフェリーは自分がするのだが、これがまた面倒くさい。
プロ選手なので激しいバトルになり、熱くなるとファールだってお構い無しだ。
それを見逃して笛を吹かないとコーチの自分に平気で文句を言う。
アカデミーの選手なら絶対に無かった事なのでコチラも苛つき、そんな時の対処法を持ち合わせてない経験不足な自分にも腹が立つ。
それはもう険悪な紅白戦になってしまう事もあった。
大人同士なのだから時には酒を交わす事だってある。
30を越えた妻帯者から、前チームを1年でクビになった選手、初めてプロになった選手まで多種多様な集団。
選手は経験していてもコーチとしての立場で相手をしなければいけない。
正直、ピッチレベルのトレーニングなら中学生のジュニアユースと同じ内容で十分だが、マネージメントは全然異なる。
だが、この一年の経験が自分の監督としてのスタンダードが出来上がったのかも知れない。
全国社会人大会で決勝戦だけがノエビアスタジアムだったので準決勝が終わってすぐにバスで神戸に移動したこと。
地域決勝の最終戦に負けた時に見た、シティライトスタジアムの夕日が綺麗だったこと。
八代陸上競技場のサブグラウンドでやったリーグ戦は応援の人がピッチ内に入りそうなくらい大勢来てくれたこと。
一年目の記憶にあるのはこれだけで試合内容はまったく思い出せないのが不思議だ。
あの頃はJクラブも少なくて、我先にってクラブばかりだったのに対戦相手の事も覚えていない。
そういえば天皇杯でピカラスタジアムでカマタマーレ讃岐とやったなと思って調べたら翌年の事だった。
なんの実績もない自分をコーチとして仲間にしてくれ、九州リーグからJリーグに駆け上がり、監督にまで抜擢してくれた熊本。
あの経験をさせて貰ったからこそ、次の讃岐に繋がったのは間違いのない事実だ。
退く年、水前寺競技場で「熊本スタイル断固支持」と書かれた弾幕が出され、ウォーミングアップの時に北野コールを叫んでくれたのにも関わらず手を振って応えられなかったのは、涙が止まらないのが恥ずかしくてロッカールームから出れなかったから。
初めてアウェイの立場で帰って来た時、懐かしのK・Kウィングで「監督 きたのまことー」と紹介された時の万雷の拍手。
ブーイングされるかも知れないと、ひそかに思っていたから思わずメインスタンドに向かって頭を下げた。
5年間という時間を、誘ってくれた池谷さんの為に、熊本の為にと頑張った。
それを応援してくれた熊本の人達には本当に感謝しかない。
熊本を離れ、讃岐に移っても兄貴は試合を観に来てくれ、一緒にうどん屋巡りもした。
酒を飲まない兄貴なので紅茶花伝をしこたま買って、一晩中サッカーを観ながら話し込んだ。
どっかで監督をしている限り、ずっと応援してくれると思っていたがFC岐阜で残留争いの真っ只中、兄貴は病気を患い亡くなった。
笠松で練習を終え、岐阜羽島まで車ですっ飛ばして新幹線に乗って、病院に駆け付けた。
兄貴のいつもの仲間達が廊下で頭を下げて並んでいた。
部屋に入ると、ベッドに横たわる兄貴は自分の顔を見つけて
「なんね、来てくれたと。北野くんなら絶対、大丈夫たい。頑張りなっせ。」
と笑ってくれた。
兄貴の耳元で
「次の鹿児島に勝って決めますけんが見といて下さいよ」
涙を流しながら話す自分の手を握ってくれ、最後まで応援してくれた。
ロアッソ熊本は20周年記念マッチの前座として、これまでロアッソ熊本を支えてくれたOB選手チームと、これからロアッソ熊本を支えるジュニアユースチームとのレジェンドマッチが開催される。
先月、日刊スポーツに掲載されたが、兄貴が溺愛していた孫が来期、桜色のトップチーム昇格が内定した。
彼の晴れ姿は誰よりも兄貴が見たかっただろう。
多分、大阪に居住を構えてたんじゃないかと思うくらい応援したかったと思う。
ならば兄貴が自分を応援してくれたように、今度は自分が彼を応援しなければならない。
残念ながら彼はロアッソ熊本の選手ではない。
しかし、兄貴の孫は自分の中ではTHE熊本なのだ。
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最後まで読んで頂き、ありがとうございました。
なんと今回、レジェンドマッチのOBチーム監督として参戦が決定しました。
皆様のサポートは熊本までの交通費、宿泊費等に充てさせて頂きます。
ご協力、よろしくお願い致します。