無事にS級ライセンスを取得した私は翌年、2009年にロアッソ熊本でJリーグの監督としてデビューしました。
元日本代表の司令塔、藤田俊哉という最高の選手を得て、プロの現場でポゼッションフットボールを実践するという、大きな決断を下しました。
しかし、私が直面したのは、理想を遥かに凌駕する「J2リーグの過酷な現実」と、当時のサッカー文化に深く根付いた「バックパスへの強い拒否反応」でした。
この挑戦の船出は、期待と罵声が入り混じる、苦難の道のりとなったのです。
一年はわずか52週しかないのに、そのうちのたった9カ月間でリーグ戦だけで51試合を戦う。
さらに、熊本は当時のJ2リーグ最南端のチームであり、日本列島を縦断する大移動を強いられました。
戦術を植え付ける期間も、コンディションを回復させる時間も極限まで削られる、これが2009年J2の恐ろしい現実でした。
18チームによる地獄の三回り総当たり戦
2009年シーズンのJ2リーグは、現在では考えられないほど過酷な日程でした。
リーグには18チームが参加し、昇格をかけた戦いは全51試合という、途方もない試合数で行われていました。
これはJ2リーグ史上最多の試合数であり、選手、スタッフ、そして監督にとって、フィジカル的にも精神的にも限界を試されるスケジュールでした。
通常、この過密日程を戦い抜くためには、コンディション調整を最優先とし、トレーニングはリカバリーと軽い戦術確認に絞るのが定石です。
しかし、私は監督に就任したばかりであり、チームに植え付けたい「目的を持ったポゼッションフットボール」の哲学は、戦術理解と基礎技術を高いレベルで融合させる必要がありました。
負荷の高いトレーニング
私は、通常の過密日程であれば「コンディション重視」のメニューに切り替えるべき状況にもかかわらず、あえて選手たちに、普通に負荷の高いトレーニングを課し続けました。
理想のフットボールを追求するためには、過酷な日程の中でトレーニングを止めるわけにはいかず、フィジカルと頭脳の両方を追い込む必要がありました。
監督である私には、チーム全体が進むべき道筋が見えていましたが、その理想を形にする過程は、現場で働くスタッフ全員に、とてつもない負荷をかけました。
もしかしたら、試合で采配を振るうだけで済んだ監督が一番、楽だったのかもしれません(笑)。
しかし、その裏で、51試合分の移動、宿泊、食事、治療、そして毎日のトレーニングの準備をこなしたマネージャーやトレーナー陣の苦労は、筆舌に尽くしがたいものがあったと、今でも感謝の念を禁じ得ません。
ポゼッションの土台
私のトレーニングセッションは、必然的にボールポゼッションが中心となりました。パスの精度、認知、判断を同時に高めるため、ボール回し(ロンド)を極限まで戦術的に落とし込みました。
1.オンリースリータッチの「ロンド」
その一つが、「オンリースリータッチ」のロンドです。
これは、選手に絶対にスリータッチしなければならないという制限を設けたトレーニングです。
当時のロンドは、ただパスを繋ぐ「ワンタッチ」「ツータッチ」が主流でしたが、「必ずスリータッチ」を義務化することで、ボール保持者は「次の展開を予期する認知」と「相手のプレッシャーを受けながらも正確なボールコントロールをする技術」という、ポゼッションにおける最も重要な要素を同時に強いられます。
最初は非常に難しい課題でしたが、選手たちはみるみるうちにこの原則に慣れ、技術と認知能力を向上させていきました。
2.中村順氏直伝の「4対4+3フリーマン」
そして、今では育成年代の指導現場でも広く行われている「4対4+3フリーマン」を導入しました。
このトレーニングは、京都時代に欧州フットボールへの探求を深めるきっかけを与えてくれた中村順氏から直接伝授されたものです。
当時の日本のボールポゼッションのトレーニングは、方向性のない「ボールキープ」が主流でした。
しかし、この4対4+3のトレーニングには、方向性を持ってボールを運ぶという要素が含まれていました。
フリーマンを使いながら、数的優位の中で相手守備のラインを越えていく。
これは、後の「立ち位置の戦術」の核となる要素であり、今でこそ普通の考え方ですが、当時はこのような方向性を持ったポゼッションドリルはほとんどなかったと思います。
ストライカーと「スペース」
この新たな哲学をピッチに実装する上で、私はシステム構築においてストライカーの役割とサイドアタッカーの選び方を最も重要視していました。
ストライカーはボールを収めなければならない
私の志向するポゼッションフットボールは、いわゆる「9番」に単なる「点取り屋」としての役割だけを求めていませんでした。
それ以上に重視していたのは、ボールを収める能力と、自身のポジション移動によって、味方のMFやサイドアタッカーが侵入するための「スペース」を意図的に作り出す戦術的な知性でした。
当時のチームには、GKからのビルドアップを担えるほど足元が得意な選手がいなかったため、残念ながら最終ラインからの組み立ては期待できず、このストライカーが攻撃の生命線でした。
理想と現実のギャップ:バックパスと罵声
私が思い描いていたポゼッションフットボールの哲学は、「前が詰まったらバックパスでやり直す」という至極当然の判断を含んでいましたが、これが当時の日本のサッカー文化と真っ向からぶつかることになりました。
当時の日本では、「バックパス」は「消極的なプレー」というネガティブな文脈で捉えられる風潮が根強く残っていました。
さらに悪いことに、現実のピッチ上では、バックパスを受けた選手が、足元の不安からミスを連発。
ミスがカウンターの起点となり、失点に繋がるという悪循環が生まれました。
私の戦術的意図は、「バックパスからミスを連発し、ピンチを招く」という目に見える現実に打ち砕かれてしまったのです。
当然、ファンやサポーターからは、バックパスをするたびに「後ろに下げるな!」「逃げるな!」と罵声を浴びることになり、大いに失望させてしまいました。
ゼロトップの誕生と攻撃の開花
チームが苦しみ、結果が出ない状況の中、運命的な転換点が訪れます。
それが、ストライカーのポゼッション型の小森田友明選手の負傷離脱でした。
この緊急事態に、私は決断を下します。
本来は中盤で起用していた藤田俊哉を、ストライカーの位置、つまり偽の9番(ゼロトップ)として起用したのです。
これは、後にFCバルセロナがリオネル・メッシを中央に据えて世界を席巻することになるスタイルに、非常に近い形でした。
「ゼロトップ」が機能し始めた理由
藤田俊哉が持つ戦術的な知性、高度なボールコントロール技術、そしてピッチ全体を見渡す能力は、このゼロトップを機能させました。
彼はあえてストライカーの位置から中盤まで下がり、相手センターバックを中央深くまで引き出すことで、「ハーフスペースに広大なスペース」を生成しました。
そのスペースへ、木島良輔、西弘典、山内祐一といった「鼻の効いたサイドアタッカー」が、切れ込んでいきました。
結果として、ボールはスムーズに繋がり、サイドアタッカーがフリーでフィニッシュに持ち込む形が量産されました。
スペインで目指した「立ち位置の戦術」が、ゼロトップという偶然の産物によって、Jリーグのピッチで綺麗で、面白いように機能し始めたのです。
トップ指導者からの評価:苦悩の中の光
結果が出ず、ファン・サポーターからの罵声に苦しむ日々でしたが、私たちが目指すフットボールの質は、当時のトップレベルの指導者には届き始めていました。
当時、日本代表コーチを務めていた大木武氏が、リーグ戦の視察に訪れてくださったこともありました。
大木氏はヴァンフォーレ甲府の監督時代、「クローズ」と呼ばれる密集地帯を、鮮やかなパスワークで崩すフットボールを見せていた、私にとって憧れの存在でした。
試合後、その大木氏から直接声を掛けてもらったのです。
「メチャクチャ良いじゃねえか。」
この言葉は、結果が出ない苦悩の中にあった私にとって、まさに心の支えとなりました。
さらに、首位を走っていた湘南ベルマーレの反町康治監督にも、打ち合いとなった試合後に声をかけられました。
「お前ら、ボール回しが上手いよ。日本代表より上手いんじゃないか」
反町監督のこの最大限の賛辞は、私たちの目指す攻撃的なフットボールが、戦術的な完成度においては、当時のJリーグにおいて極めて高い水準に到達していたことを示していました。
この二人のトップ指導者からの評価は、私がスペインで得た哲学と、選手たちが積み重ねてきた努力が、間違っていなかったという確信を与えてくれました。
攻撃の成功と守備の崩壊:最大の落とし穴
「これで勝てる」トップ指導者からの評価も受け、ピッチで藤田のゼロトップが繰り出す流れるような攻撃を目の当たりにし、私は確かな手応えを感じました。
綺麗に崩せて点は取れるようになり、チームは観客を魅了するフットボールを展開し始めました。
しかし、現実は甘くありませんでした。
攻撃が劇的に改善したにもかかわらず、チームはなかなか勝ちに恵まれなかったのです。
失点は相変わらず多く、勝利に繋がらない引き分けや、打ち合いの末の敗戦が続きました。
綺麗に崩せて点は取れるが、失点は変わらない。
これが、このシーズンの最大のジレンマでした。
バルサとの決定的な違い:奪われた後のファーストプレス
この矛盾は、一つの決定的な事実がありました。
それは、私が見ていたバルサのフットボールと、熊本で実践しているフットボールとの間にあった、最大の、そして致命的な違いでした。
バルサのポゼッションフットボールは、単にボールを保持することではありません。
彼らは、ボールを奪われた瞬間、一斉に最もボールに近い相手選手に猛烈なプレッシャーをかけ、即座にボールを奪い返す戦術を徹底していました。
これが、「奪われた後のファーストプレス」であり、彼らのポゼッションを可能にしていた「最も強固な守備」だったのです。
私は、ポゼッションを「攻撃の戦術」としてのみ捉え、この奪われた瞬間の守備の重要性を、選手たちに伝えきれていませんでした。
いや、伝えられなかったというよりも、グアルディオラ・セグンドの衝撃を目の前にしながら、その本質的な守備のメカニズムに気づけていなかったのです。
攻撃と守備は表裏一体である。
美しい攻撃の裏側には、常に猛烈で組織的な即時奪回という守備の意思がなければならない。
これが、ポゼッションフットボールにおける最大の真実であり、私の監督キャリアにおける最大の落とし穴でした。
戦術論を超えたプロのマネジメント
この複雑な戦術と結果のギャップに加え、監督にはもう一つの大きな壁がありました。それが、プロのマネジメントです。
戦術論や技術指導だけでは、プロの世界はマネージメントできません。
最も重要なのは、いかに選手に納得させることができるか、そして試合に起用できない理由を伝えることです。
戦術的な判断であれ、コンディションの理由であれ、その理由を伝えるのは監督の大事な仕事であり、選手の信頼関係を築く基礎となります。
このあたりの心理的なマネジメントの機微は、S級ライセンス研修で深くまで教えてくれる領域ではありませんでした。
しかし、一度だけ、日本代表監督として一時代を築いたイビチャ・オシムさんに質問する場があり、私はあえて「メンバーの選び方」について尋ねたことがあります。
オシムさんが返してくれた言葉は、深く、そして私の監督としてのキャリアを決定づけるものでした。
「最も大切なのは18番目の選手だ」
ベンチにも入れず、スタンドから試合を見つめる選手ではない。
試合に絡むギリギリのラインであるベンチ入りメンバー、その中でも控えの最後に位置する18番目の選手のモチベーションこそが、チームの真の強さを決めるのだ、と。
この言葉は、私のこれからのマネージメントに大いに役立つ、戦術論を超えたプロの現場の真理を示していました。
この2009年シーズンは、J2リーグ最終順位が14位(全18チーム中)に終わり、私のプロ監督としての初挑戦は、理想と現実に阻まれる苦いスタートとなりました。しかし、この敗北と苦悩の経験を通じて、私は現実路線へと大きく舵を切るのでした。

