現代サッカーにおいて「ポゼッション」(ボール保持)は、戦術を語る上で最も重要なキーワードの一つです。
しかし、この概念が日本で熱狂的に受け入れられ、ある種の「信仰」にも似た現象を巻き起こすに至った背景には、いくつかの誤解と、特定の時代の情報が偏重された特殊な土壌がありました。
この「ポゼッション信仰」がピークを迎えた時期、国内では「ポゼッションこそ正義」であり、相手ゴールへ最短距離を目指すダイレクトプレーを揶揄する風潮すら生まれてしまったのです。
これは、FCバルセロナがその流麗なパスワークで世界の頂点に君臨し始める2000年代後半の「前夜」、一指導者が「基礎技術」の徹底から「立ち位置の戦術」の哲学へと至るまでの、プロの現場で起きた戦術的変遷の記録でもあります。
ハンス・オフトが持ち込んだ「論理と組織」
私が指導者の道を歩み始めたのは、Jリーグクラブの育成組織(京都サンガ)でした。
そのキャリアの黎明期、日本のサッカー界に「プロの論理」という概念を最初に叩き込んだパイオニアと、私は極めて近い場所で仕事をしていました。
それが、日本代表監督を率いた後に京都サンガの監督を務めていたハンス・オフト氏です。
私は、その時期に強化スタッフとしてオフト監督を間近でサポートする機会に恵まれました。
オフト監督の指導は、日本サッカーが未だ「根性」や「気合」といった曖昧な言葉に支配されていた時代において、衝撃的なものでした。
- 「論理の言語化」の徹底: すべてのプレーに明確な意図と論理が必要であり、それを日本語で言語化し、選手に理解させるというプロセスが徹底されました。
- ゾーンとコンパクトネスの導入: 日本代表時代と同様に、京都サンガにおいても「ゾーンディフェンス」と「コンパクトネス」の概念を植え付けました。
組織的に守備ブロックを形成する手法を指導したのです。
私が育成年代の指導者としてキャリアをスタートさせる上で、「戦術とは、個々の技術の集大成であり、論理で選手を動かすものだ」という土台を築いてくれました。
「止める・蹴る」とアヤックス哲学の徹底
指導の焦点は、「いかに基礎技術を正確に速く行うか」という一点に集約されました。
当時、私はトップチームのオランダ人監督ピム・ファーベーク氏の影響を通じて、オランダのアヤックスの育成メソッドに強く傾倒していました。
アヤックスの育成は、ポジションを問わず高度な基礎技術を要求するもので、「基本技術の徹底」だと捉えました。
私は、当時のVHSのビデオを繰り返し見て、究極の基本である「止める」技術と「蹴る」技術、そして「ボールの止め方や置きどころ」を徹底的に追求しました。
この時期の指導は、基礎技術の精度向上に特化しており、戦術としての「ポゼッション」の概念にはまだ到達していませんでした。
欧州フットボールへの覚醒と「銀河系軍団」
私のサッカー観が「基礎技術」の指導から「戦術・システム」への転換点は、ピム監督のコーチ兼通訳を務めていた、ヨーロッパのフットボールに精通している中村順氏と交流ができたことでした。
中村氏との出会いを通じて、私はヨーロッパの最新のフットボール、特にリーガ・エスパニョーラに夢中になっていきました。
当時、私の関心は、世界中からスターを集めていたレアル・マドリードの「銀河系軍団(Galácticos)」へと移っていました。
2000年代前半から中盤にかけてリーガを席巻していたレアル・マドリードのフットボールは、個のクオリティと爆発的なダイレクトプレーで一気にゴールを奪う、エンターテイメント性に満ちたものでした。
私は中村氏から、レアル・マドリードや当時のヨーロッパの最新の戦術について、何度も映像を見ながら直接レクチャーを受けました。
その場に何度かピム監督も顔を出してくれたのは、今では良い思い出です。
誤解が生んだ「ポゼッションの神格化」
しかし、日本国内では特定の成功例に起因する「ポゼッション信仰」が生まれ始めていました。
その背景には、二つの大きな地理的・戦術的な誤解がありました。
誤解1:スペイン=ポゼッション(一律のスタイル)
一つは、スペインという国全体のサッカーがポゼッションを志向しているという「スペイン=ポゼッション」という誤った認識です。
確かに、のちにスペイン代表は「無敵艦隊」としてEURO 2008、W杯2010、EURO 2012とメジャータイトルを席巻しますが、それ以前のスペイン代表が披露していたフットボールは、ブラジルの「黄金のカルテット」や、フランスの「四銃士」のような華麗なパス回しを基調としたイメージとは異質なものでした。
当時、私がスペインに抱いていたイメージは、むしろ「フィジカル重視」や「泥臭さ」が混在していました。
バルサ在籍中のディエゴ・マラドーナが、アスレティック・ビルバオのゴイコチェアの危険なタックルで骨折したニュースは、フィジカルコンタクトが激しいリーガの側面を強く印象づけていました。
また、Jリーグ開幕前後の時期にバレンシアへ留学した高校の後輩である磯貝洋光が、「FWは身長が低く、MF、DF、GKの順に高くなっている」と話してくれたように、当時のスペインサッカーは、すべてのクラブが一律にポゼッションを志向するような単一のスタイルではなかったのです。
守備の堅いチームや、カウンター主体のチームも多く存在していました。
にもかかわらず、「無敵艦隊」という言葉のイメージと特定の成功例が結びつき、ポゼッションへの憧れが日本国内で過熱していったのです。
誤解2:バルセロナ=バルサ(都市とクラブの混同)
そしてもう一つが、バルセロナという都市のサッカーがすなわちFCバルセロナのスタイルであるという「バルセロナ=バルサ」という誤解です。
バルセロナはカタルーニャ州の一県に過ぎず、その州都に本拠地を置く名門クラブは、FCバルセロナとRCDエスパニョールの二つが存在します。
バルサがヨハン・クライフの影響を強く受けた「トータルフットボール」の系譜にあるのに対し、エスパニョールは対照的に、組織的な守備とタフなフィジカルを重視するスタイルで知られています。
しかし、メディアの露出やイメージから、当時の日本のファンや指導者は、バルセロナのフットボール全体が「バルサ流」であると短絡的に捉えてしまっていたのです。
プロの現場での葛藤と「運命的な接点」
指導の場をロアッソ熊本に移し、プロ選手のコーチとして指導に当たるようになりました。
熊本でプロ選手への指導は、京都の育成で徹底していたのと同様に、「パスの精度やボールの置き所」といった基礎技術でした。
あくまで攻撃の土台となる基本的な技術の質を高めることに集中しており、戦術としてのポゼッションフットボールを標榜していたわけではありません。
しかし、プロの現場での指導経験は、私に大きな葛藤をもたらしました。
技術の徹底だけでは、システムの深い理解や、ゴールへの目的意識を、選手たちに本当の、深いところまでは指導できていなかったという苦い経験があります。
ですが、プロは結果が全ての世界です。
理想より現実を選ぶ監督の考えは間違いではありませんでした。
このジレンマこそが、私に新たな学びを求める動機となりました。
研修先の決断と特別な環境
ついに2007年、S級ライセンスを受講します。
このS級ライセンスの国内講習で、「システムの変遷」というテーマでプレゼンテーションを担当する経緯がありました。
これまでの自身の戦術理解をアウトプットする場を得たことは非常に有意義でした。
のちに名だたる名将になる、多くの同期生の前でプレゼンができたのです。
そして、私が海外研修先に選んだのは、FCバルセロナではなく、先に述べたもう一つの名門、RCDエスパニョールでした。
この選択には明確な理由がありました。
JFAからの推薦状だけでは、トレーニングを外から見学することしか許されないのが当時の慣例でした。
現に、京都時代の先輩指導者はレアル・マドリードに研修先を選んだのですが、ネット越しにしかトレーニングを見れなかったと話をしていました。
しかし、私はもっと深く、クラブの哲学や指導法を学びたかった。
そこで頼りになったのが、友人であり、当時エスパニョールの育成組織の指導者をしていた、清水和志氏の存在です。
清水氏のアテンドは、クラブ選びに留まりませんでした。
私のバルセロナでの一カ月の宿泊先は、なんとFCバルセロナの英雄で、ヨハン・クライフの右腕として「ドリームチーム」を支え、日本でも監督経験のあるカルロス・レシャック氏のお母様の家だったのです。
この類稀な環境が、私の学びの質を一変させました。
レシャック家との縁を通じて、通常では見学が叶わないバルサの練習を見に行けたり、カタルーニャ州公認のインストラクターにまで個人的なレクチャーを受けることができました。
これは、単なる「スペイン研修」ではなく、バルサ哲学の源流である「クライフイズム」の文化を、生活の中から肌で感じ取る機会となりました。
朝、目を覚ますと台所からパンの焼ける香ばしい匂い。
お母様が笑顔でコーヒーを差し出してくれます。
夕食は「これでもか!」と言わんばかりに、スペインの家庭料理が次から次へとテーブルに並びます。
食後のコーヒータイムは、さらなる試練の始まります。
お母様の踊りが始まるのです。
拍手すべきか、辞書を引くべきか。
スマホもない時代、西和辞典だけが頼りでした。
研修先のエスパニョール自体も、バルサとは対照的に、組織的な守備とタフなフィジカルを重視するスタイルで知られていました。
この時期は、バルサ出身の技巧派ミッドフィルダー、デ・ラ・ペーニャが所属し、また後にバルサのトップチーム監督を務めることになるエルネスト・バルベルデが指揮を執っていました。
バルサの哲学とは一線を画す、カタルーニャのもう一つのフットボールを学んだことは、のちに私の指導哲学で重要になったのです。
ツテが導いた衝撃の試合:グアルディオラとの出会い
このような特別な環境にいたからこそ、私はフットボールの最先端に導かれることになります。
エスパニョールとバルサ双方の関係者から「面白いフットボールをしているから、一度観に行ってみろ」と勧められたのが、FCバルセロナ・セグンド(Bチーム)の試合でした。
セグンドの監督こそが、2007年に就任し、その数カ月後の2008年5月にトップチームの指揮官に昇格し、世界に衝撃を与えることになるペップ・グアルディオラその人だったのです。
私は、そこで目の当たりにしたフットボールに衝撃を受けました。
グアルディオラが指導するセグンドの光景は、日本で広まりつつあった「ポゼッション」という言葉の、従来の概念を完全に打ち砕くものでした。
それは単なるパス回しではなく、ボールを保持しながらも常に相手を動かし、支配し、そして「ゴールを奪うためのポゼッション」「立ち位置の戦術」という、独学だった「システム」の論理を遥かに超える、全く新しい次元の哲学でした。
このバルサ・セグンドでの衝撃的な出会いが、日本で抱いていた「ポゼッション」に対する誤解を解き、私の指導を根底から揺さぶることになりました。
Jリーグ監督としての決断
S級ライセンスを取得し、2009年、ロアッソ熊本で初めてJリーグ監督として指揮を執ることになります。
監督就任直後、私の中に明確な「ポゼッションフットボール」の標榜はありませんでした。
熊本でのチーム作りは、それまでの指導経験に基づき、まずは土台の徹底から始める、オーソドックスなものから始める予定でした。
しかし、ある選手の獲得が、その考えを劇的に変えることになります。
それは、元日本代表の司令塔、藤田俊哉を獲得できたことです。
藤田俊哉が持つ高度な技術と、ピッチ全体を見渡す能力は、「立ち位置の戦術」や「目的を持ったパスワーク」といった、新たなポゼッションを、チームに伝えることができると思いました。
この藤田俊哉という選手の存在を得て、私の決意は固まりました。
「ポゼッションフットボールを、日本のプロの現場で実践する時だ」
こうして、私のJリーグ監督としてのキャリアは、スペインで得た新たな哲学、「目的を持ったポゼッションフットボール」への挑戦として幕を開けることになったのです。

