楽しい事はあっという間に始まって、あっという間に終わる。
強豪相手にどれくらいの戦いが出来るかが始まる前の一つの楽しみだった。
初戦で勝ち点を取るのは難しい。
どんなに守備的に試合を進めても質実剛健なドイツに勝つ要素は限りなく低いだろう。
二戦目のコスタリカに勝って、三戦目のスペインに最低でも引き分けてあわよくばカウンター一発で勝点三を手に入れる。
そうなれば得失点差の勝負なるので二戦目が鍵になる皮算用に自分なりの楽しさを持っていた。
それがまさかの初戦のドイツ戦を逆転勝ちをするもんで楽しみ方が大きく変わった。
日本中がそうだったのに違いない。
ワールドカップが始まる前は「いつもの」盛り上がりが無いなどとTwitterのタイムラインに溢れていた。
そう言う自分自身も「ワールドカップに出るという事が凄い事なのに世間は分かってないな」と盛り上がっていない日本を残念に思っていた。
アジア予選での苦戦で森保ジャパンへの期待が薄れていたから仕方がないが、一応はサッカーに携わる1人としては寂しい気持ちだった。
今回のワールドカップで日本代表は7大会連続出場を果たした。
ジョホールバルの歓喜で出場権を得たフランス大会から、ずっとワールドカップに出ているのだから「出て当たり前」になってるのは確かだ。
だが、アジア枠が増えた事もあるが7大会も連続出場するのは誇るべき記録なのにだ。
メディア関係者はもっと、もっと発信して欲しいのだが余りにも少ない。
それでも今大会はこれまでのワールドカップを経験した元日本代表選手が解説などで多くのメディアに出演しているのは良い事だと思う。
ケイスケホンダの解説が注目を浴びているのはサッカー界にとっては嬉しい事では無いだろうか。
自分自身は「ドーハの悲劇」の時は現役選手だった。
同世代の友人たちがピッチに泣き伏せる姿をテレビで見ていた。
あの頃はワールドカップなど夢のまた夢だった。
それでも、あの頃の選手達がいたから、今の連続出場が出来る日本代表になったのだと思う。
2002年の自国開催。
予選なしでワールドカップに出場できる。
それまでに何とか自力でワールドカップに出場しなければならない。
当時のサッカー関係者は皆んな思っていた。
それは選手も然りだ。
初めて日本代表を目の前で観たのは高校生の時だった。
部員数の多い、我が母校は国立競技場で行われる国際大会の時には「飛び降り防止係」として駆り出されていた。
当時の国立競技場ではロープを張って、前列3列目までの席は座れなかった。
それは最前列から飛び降りてピッチに入るのを防いでいたからだ。
元日の高校選手権大会で我が母校が優勝を決めた瞬間に多くの子ども達がピッチに乱入したのが切っ掛けかどうかは知らない笑。
そんな「飛び降り防止係」だったので日本代表の試合やトヨタカップを最前席で観れた。
500円と弁当を貰って特等席で観れるのだから、ありがたい。
あのプラティニの幻のゴールからの寝そべりを世界中の誰よりも目の前で見れたのは何を隠そう自分なのだ。
そんなフリー特等席で日本代表戦を観れるのだが、中でも強烈な思いをした試合があった。
ワールドカップだったかオリンピックだったかは忘れてしまったが、どちらかのアジア予選だった。
ワールドカップの本大会どころかオリンピックだって釜本さんのメキシコ以来、出場していなかったと思う。
それくらい日本代表は世界大会に出場していない時だ。
対戦相手は北朝鮮代表だった。
我が母校のお隣は東京朝鮮高校だったので、お互いが少しヤンチャな時代だった事もありサッカーだけではなくいろんな交流があった笑
そんな事もあり、「飛び降り防止係」の自分達は北朝鮮代表に対してライバル視をしていた。
開場前に国立競技場に着くと、すでに北朝鮮の国旗を持った大勢のサポータが列を成していた。
今でこそ考えられないと思うが当時は日本代表のホームゲームなのに相手国のサポーターの方が多かったのだ。
人数だけではない。
試合が始まると、応援の声やチャントだって北朝鮮サポーターの方が統制が取れていた。
それは中学生だった頃にNHKで観た、ワールドカップで自分の国を応援している人達だったのだ。
これがフル代表の国際試合、本大会を賭けた真剣勝負なんだと実感した瞬間だった。
後にチームメイトになる西野 朗さん、須藤茂光さん、菅又哲雄さんが日本代表として出場していたが応援だけではなく実力の方も北朝鮮が上だった。
さらには、その数ヶ月後に観た韓国とも差があったのを高校生ながら感じていた。
それほど当時の日本代表はアジアでも苦戦していたのだ。
東アジアだけではなく東南アジアも強かった。
タイ代表との試合で菅又哲雄さんがピヤポン・ピウオン選手にブチ抜かれた映像を柏のクラブハウスで見て本人を目の前に爆笑していたのが懐かしい。
それくらい当時はワールドカップに出場する事は本当に大変だったのだ。
それでも先人達の努力があったからこそ今があるのだと思う。
海外組だった奥寺康弘さんが西ドイツで活躍して、風間八宏さんが続いた。
木村和司さんが日本で第1号のプロになり、プロ選手が増え出した。
流行に乗った自分もプロ選手となりプロリーグの誕生を待った時代だった。
その辺りからサッカーに対する世間の目も変わってきたと思う。
読売クラブの顔がジョージ与那城さんからラモスさんに変わった頃、キングカズがブラジルから帰ってきてサッカー人気は上がってきた。
人気が上がれば日本代表の実力も上がった。
今度こそワールドカップに出場するんだという日本中の強い気持ちで臨んだ試合が「ドーハの悲劇」だったのだ。
そしてJリーグが誕生して海外から実力のある選手が日本でプレーするようになり空前のJリーグブームが起きた。
そこから「ジョホールバルの歓喜」で勝利した日本代表は連続出場をするようになった。
若い人にとって「出場するのが当たり前」のワールドカップだがサッカー界の過渡期にいた自分は日の当たらなかった日本代表の選手がすぐ側にいた。
あの人たちはワールドカップをどう観ているのだろうか。
あの人たちが居たからこそ今があるはずなのだ。
それは日本代表だけではない。
Jリーグのクラブだってそうなのだ。
来期から60クラブになるJクラブの大半は地域リーグからコツコツと階段を上がってJクラブになった。
そこには沢山の選手達が存在したのだ。
ちょうどオフシーズンの今、各地でレジェンドマッチが行われている。
ファンやサポーターにとっては懐かしい選手がピッチを走っているのを見るのは嬉しいはずだ。
応援を始めた頃の選手、忘れられない試合でゴールした選手、昇格や降格で一緒に涙をした選手などそれぞれに思い出深い選手達なのだから。
交通費や宿泊費だけではなく、グラウンド使用料など経費を考えると大変だとは思うがファンにとっては嬉しい事なのでドンドンやって貰いたいと思う。
ちょうど昨日、自分が主催するサッカースクールに4人の懐かしい顔が遊びに来てくれた。
彼らはカマタマーレ讃岐時代の選手とトレーナーだ。
まだカマタマーレ讃岐が四国リーグの頃の選手達だ。
彼らはレジェンドマッチには呼ばれない。
レジェンドマッチはJリーグに参入してからの選手なのだから仕方がない。
彼らのレジェンドマッチをやっても収益が出ないのだからクラブが呼ぶわけがないのだ。
だが、彼らが居たからこそ今のJクラブという地位にいる事を忘れてはいけないと思う。
自分は当時、選手達にミーティングで言っていた事がある。
”このクラブはJリーグを目指している。だから勝ち続けないといけない。
でも、この中から何人がJリーガーになれるかは分からない。
もしかしたら、一人もいないかも知れない。
それは俺も同じだ。
でもな、お前らがいるからクラブはJリーグになれるんだ。
お前らがこのクラブのレジェンドになるんだぞ”
結局、Jリーガーになったのは波多野寛と綱田大志の二人だけだった。
カマタマーレ讃岐だけではない。
どのクラブにも、そうした選手は大勢いるというか、そんな選手だらけだ。
人生において、Jリーガーになる事が全てではないが、皆んなJリーガーになる事を夢に見て頑張っていたのは確かだ。
プロ選手になるのは一握りの選手で、そのほとんどは夢で終わってしまう。
サッカー界に残る人もサッカー界を離れる人もいるが、彼らの夢があったからこそ今があるのだ。
日本代表の日の当たらなかった選手達とはスケールが違うかも知れない。
だが、彼らもクラブのレジェンドなのだと自分は思う。
他に仕事をこなしながらJリーグを目指すクラブに所属して、昇格を繰り返しても自分自身はJリーグの舞台に立てなかった。
観客として、裏方として昇格させたクラブの晴れ舞台を見るのは相当、悔しい思いがあったに違いない。
今になって彼らにプロ選手にさせてやれなかった事を詫びる事がある。
「そんな事ないですよ。実力がなかっただけです」
謙遜する彼らをクラブは忘れてはいけない。
ただ、昔からクラブを応援しているファンの方は彼らを忘れる事は無いはずだ。
それはJリーグになった今だろうが地域リーグやJFLだった頃を思い出してくれるはずだ。
「あの頃はこうだったんだよ」って語り継いでいるファンの方は全国に沢山いる。
そんな方々の心の中にいる選手だからこそ彼らはレジェンドなのだ。
今でも時間がある時に会いに来てくれたり、連絡をくれるレジェンド達が大勢いる自分は幸せだ。
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ただいま真剣に小説を書いております笑
タイムスリップして、あの時代のワールドカップ予選に挑戦します笑