「サッカーじゃ飯が食えない」自分がこの言葉を聞いたのは小学6年生だった。
西日本から選抜された小学生が神戸に集められた。
今で言うところのトレセンか何かだったのだが、神戸に向かう車の中でオヤジと少年団の監督の会話だった。
後部座席に座り、暇を持て余していた耳に入って来た「サッカー選手になっても飯は食えんからのぉ」は今でも鮮明に覚えている。
Jリーグが誕生して30年の今では考えられないだろうが、それまでサッカーはマイナーなスポーツだったのだ。
1991年に「社団法人日本プロサッカーリーグ(Jリーグ)」が設立され、1993年5月15日にJリーグは開幕した。
現在は全国各地に60ものクラブがJクラブとなりサッカーは身近な存在となった。
野球の独壇場だった日本のスポーツ界はJリーグが発足して以降は様々なスポーツに脚光が集まるようになり、漫画の世界でもスポ根の物語から仲間やチームワークといった物語に変わった。
そんな日本サッカー、日本のスポーツ界の変革期に私は現役の選手だった。
今でこそネットやSNSの普及もあり、Jリーグのチームや選手の様子などは何処にいてもスマホがあれば直ぐに目にする事が出来る。
だが、当時マイナースポーツだったサッカーはニュースになる事はほとんど無く、日本代表の試合ですら一般の人達にはあまり知られていなかった。
日本代表ですら、そんな状況なのだから日本リーグ(JSL)のチームや選手の情報はコアなサッカーファンにも知られていなかったと思う。
ジャーナリストが記事にしても世間が欲しないのだから情報は広がらない。
当時のサッカーに魅力があった、無かったはさておき、サッカー好きにとってはモドカシイ時代だったのではないだろうか。
昭和50年代後半、1980年半ばの頃に国立競技場が満員になるのはラグビーの日本選手権と高校サッカー選手権大会、欧州チャンピオンと南米チャンピオンが戦うトヨタカップくらいだった。
高校選手権とトヨタカップが満員になるのだからサッカー人気は潜在的にあったのだと思う。
だが日本のトップリーグであるJSLのチームが天皇杯決勝で多くの観衆を集めるのは、まだまだ先だった。
サッカーにしてもラグビーにしても日本では何故か『冬のスポーツ』と位置付けられていた。
走ったら温かくなるからなのか子供の頃から、そう教えられていた時代だった。
確かに待ち時間の多い野球は冬は出来ない。
ラグビーの日本選手権も高校選手権も冬に行われ、トヨタカップは秋深い時期だった。
その時期の日本中の芝生は枯れて、茶色に変化している。
当然、国立競技場のピッチも茶色だ。
常緑のピッチが原則であるJリーグ世代の方々には信じられないだろうが、これが日本の当たり前だった。
もっと言えば冬に芝生が根付いているピッチでプレー出来ることが幸せだったのだ。
逆に欧州や南米の選手達は茶色の芝生に驚き、アヤックスのファン・ハールは至る所がハゲていた茶色のピッチに怒り狂ったらしい。