非公開での練習試合から帰り、クラブハウスで 鹿児島ユナイテッド 対 カマタマーレ讃岐をDAZNで観戦した。実はJ3を90分フルマッチを観るのは初めてだ。
激しく降る雨の中でもボールは動いている。白波スタジアムのピッチの芝生は素晴らしい。鹿児島ユナイテッドがJリーグに昇格するまでは長年、ジュビロ磐田のキャンプ地であり京都サンガも年に一度、ホームゲームを開催していたスタジアムである。
そして何より鹿児島県には高校サッカーの強豪 鹿児島実業高校がある。鹿児島県がサッカーを一つの文化として認識しているのだと思う。雨の中でも水たまりが溜まらず、プレーに支障がないように整備されている。芝生を含めたスタジアム管理は非常に大変で管理の方々には頭が下がる。
全国には鹿児島県以外にもサッカー文化が根付き、素晴らしい県立のスタジアムはある。建物の箱自体は古いがピッチ、ロッカールームが素晴らしいスタジアムは多い。
Jリーグが誕生して20年以上が経ち、サッカー文化が全国に広がっている。だがサッカー先進国は国自体でサッカー文化があり、その国のクラブチームはそれぞれの文化を持ち続けている。フロント首脳陣や監督が替わってもクラブのスタイルは変わらない。
Jクラブでスタイルを持ち続けているクラブはどのくらいか。すでにスタイルを確立したクラブ、確立中のクラブ、迷走中なクラブ。予算であったり、地元との関係でクラブそれぞれの事情もあるが、まだ20年しか経っていない。50年経てば見えてくるのだろうか。その頃にはこの世にいないので残念だ。
大きい話じゃなく小さい話。まだクラブとして確固としたスタイルを持たないチームは監督や選手で変わる。規模の小さなクラブ、これから築こうとしているクラブがそれ。
初めて監督になったロアッソ熊本はJ2昇格の2年目でこれからのクラブだった。元々、熊本県はサッカーだけではなくスポーツが盛んで、とりわけ若い選手への取り組みが多かった。幼稚園児からたくさんのスポーツ大会の催しがあった。
老若男女、大勢の人達がスポーツに関わるので当然のこと、施設も充実していた。サッカーだと幼稚園児からシニアまで芝生の上でプレーできる。人工芝よりも天然芝のグランドが多いのが驚きで、気候的も良かったのだろうが管理ノウハウが長けていたのかも知れない。
ロアッソ熊本のホームスタジアムは『えがお健康スタジアム』当時は『KKウィング』。ピッチの芝生は最高に良かった。雨だろうがボールは普通に動かせる。
当時のロアッソ熊本は勝つための現実的なサッカーをしていた。クラブをJリーグに昇格させるべく 池谷友良監督 が取った戦い方は当然だった。ピッチ状態は関係なく、長いボールを相手サイドに送り込んで攻撃し、停滞すれば相手にボールを渡しカウンターを狙う極端な戦術だった。
コーチであった自分も当然そのサッカーに賛同して選手に伝達していた。試合は走力があり、パワフルさが特徴の選手を起用してJリーグに昇格した。
昇格した一年目も戦い方は継続しシーズンの終盤に差し掛かった頃に 池谷 監督から現場の指揮権の半分以上を任されるようになった。それというのも2年目は監督を自分に変え、自らはクラブの経営に携わる計画があったからである。いわば、来期の準備をさせてくれたのだ。もちろん選手にはあくまでも自分はコーチで監督は 池谷 監督 という事を認識させた。
来期どういうサッカーをするか。最初に頭に浮かんだのはホームスタジアム『KKウィング』だった。雨が降っても問題なくボールが動きパススピードも上がる。ならば、あの時にスペインで見たボールを持って「相手をどチン」にするサッカーをしたい。頭の中にスタイルが浮かんだ。
正式に監督になりボール保持率を高めてショートパスをつなぐスタイルに挑戦した。FCバルセナがまだ今のように日本に馴染みのない頃だった。「縦切り』の練習を試行錯誤しながら繰り返し、夏以降に形が見えて来た。
このサッカーの中心選手は 藤田俊哉 だった。彼とはグランドだけではなく家が近所だった事もあり何度も戦い方を話し合った。ベテランだったにも関わらず 藤田俊哉 には51試合中50試合も出場してもらった。
序盤はバックパスが多く勝てない試合が続き、スタンドからはブーイングが起こった。下手なポゼッションスタイルの戦術はバックパスが多く前へ運べない、ただ繋いでいるだけの実に面白くない自己満足的なサッカーだ。ファンやサポーターが不満に思うのも無理はない。
それでもブレずに練習を続け、たまに目が覚めるような崩しを試合で出せるようになった。次に問題になったのが途中で引っ掛けられてカウンターで失点する事だった。今だから明かせるが当時は攻めて奪われた時の守備の仕方を知らなかった。点を取られたら取り返せば良いとしか考えていなかった。
熊本スタイルはゼロトップの 藤田俊哉 を使いながらボールを動かし、スピードのある 木島良輔 ら二列目が得点をするという形が出来つつあった。試合前や後には無名の新人監督の自分に相手チームの監督が話しかけてくれるようになったのはこの頃からだった。特に外国人監督にはウケが良かった。
当時のベルマーレ平塚 反町康治 監督には「日本代表より上手い」と言ってもらい、代表選手の視察で熊本を訪れた、あの『クローズの使い手』 大木 武 日本代表コーチにも褒められた事は自信になり、さらに精度を上げて行った。スタンドに『熊本スタイル 断固支持』と書いた大きい弾幕をサポーターが上げてくれ、北野コールを叫んでくれた時は嬉しくて涙が出た。
一年間だけであったが自分の思い描いたスタイルを体現したシーズンだったと思う。51試合、降格なしの条件だったから出来たスタイルで、試合は負けた方が多かったが自分としてはエキセントリックな攻撃サッカーをやった感はある 笑
鹿児島、熊本に於いて大雨で被害を受けた方々にお見舞い申し上げます。